・・・・・・・っということで、吉田松陰が処刑される前に牢獄で長い遺書を書いたのは良く知られています。
【留魂録】というそうです。
その中に、次のくだりがあります。
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十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
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人間の人生にはその長短に関わらず、必ず「四時(四季)」があるものだと悟っているのです。
蝉は地上に出てから死ぬまでの時間が短いとされています。
だから可愛そうなのか?
樹木は長く生きる。
だから幸せといえるのか?
蝉は短い生命の中において、ちゃんと春夏秋冬を備えているではないか。
さらに進んで、人間も長生きする人もいれば夭逝する人もいて、人生の長さは一定ではない。
それぞれに四季があるというロジックである。
もっと進んで、寿命に至る前に事故に遭ったり殺されてしまう人にだって四季があるのではないかとまで行ってしまう。
もちろん、これから処刑されてしまう自分の運命に重ねています。
このあと自分は目的を達することも出来ずに、中途半端なところで人生で終わってしまう。
実際のところ、彼は29歳で人生を終えました。
しかし、そんな自分でさえ、四季を生きたというのです。
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ナンか無理があるなぁ~というのがぼくの感想です。
例えば、通り魔に遭遇して殺されてしまった若い人に、その人の四季を生きたといえるのか?と考えてしまうからです。
もっと生きたかったのは間違いないでしょう。
なのに、それでもそんな不幸な人にも春夏秋冬があったとは考えられないのです。
松蔭は処刑されるまで相当な時間があった。
明らかに不条理な死だと考えている。
それを受け入れるためには、納得できるロジックが欲しかっただけではないか。
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このあと、彼は多くのことをやり残し未練があっただろうと哀れんで欲しくないと書くのです。
なぜなら、短い間でも自分は多くの種子をこの世に残したからだ。(もちろん彼の弟子のことを言っています。)
残した種子は籾殻(もみがら)かもしれないけれど、実を付ける種子かもしれない。
それだけで十分自分の人生(四季)を生きたと自ら納得して、死を受け入れる覚悟を決めるのです。
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さぁて、ここまで来ると、ぼくも考え込まざるを得なくなる。
じゃあ、十分自分の人生を全うしたと確信して死んだ人間が、一体全体いたのかどうか。
だれもが未完のまま、世の中に未練を残して死ぬのじゃないか。
それならば、人生の長短を云々するのは的外れじゃないか。
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159年前の一昨日死んだ29歳の若造の言葉に心乱される66歳のジジイでした。(^^ゞ