・・・・・・・っということで、ゴーギャンの代表作である。
題名はD'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
「われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか」である。
真に哲学的な問いかけである。
ゴーギャン最晩年に描かれたこの絵は、彼が辿り着いた精神の終着点だといっていいだろう。
終着点とは「高み」である。
この絵の「謎解き」が出来るほどぼくは造詣が深くない。
でも、この絵画から得られるぼくなりの印象を書いても許されるだろう。
先ずゴーギャンはこの絵を描くにあたって決めたことは、上部両端の明るい部分だっただろう。
この間に描かれているのが人間や動物が生きる「現世」であることは間違いないだろう。
両端は黄金のように明るく、反対に現世は暗いトーンで覆われている。
右下には赤ん坊がいて、左下には老婆がいる。
真ん中には女性が立っていて天から何かを摘み取ろうとしている。
不思議なことは登場人物が全て女性だということだ。
(男性もいるのかも知れないが。
実は現世を現世として生きているのは女性なのだと感じていたと思う。)
正直なところ、ゴーギャンは人物デッサンが下手くそである。
まるで小学生が描いたように人体のバランスがむちゃくちゃである。
わざとデフォルメしたのかも知れないが、ぼくは人体の構造なんかに彼は無頓着だったと思っている。
もっとも、そのことがゴーギャンをゴーギャンたらしめているのだが。
西洋画の特徴であるキリスト教的な宗教観はぼくは感じられない。
もちろん真ん中の女性はイヴを現しているのだとは思うが、絵画全体は宗教観に覆われていない。
むしろ逆だ。
なぜなら、左にある立像が実におざなりに描かれているからである。
こんなけったいなもの拝むのか?という風に見える。
この絵の主題は題名のとおり、哲学的なものであり、宗教では解決できないもっと次元の高い問題である。
この絵はズバリ「存在」の不思議を描いていると思う。
ぼくが確信していたのは、ゴーギャン自身をこの絵のどこかに描きこんでいるに違いないだった。
ところが、彼の姿はぼくには見つけられなかった。
(ひょっとして、犬とかヤギとかアヒルの姿かもね。)
実は彼の存在は、左上に書かれたD'où venons-nous ? ・・・と疑問を発する自己なのだろう。
彼が生存している間、彼の絵は一枚も売れなかったという。
それでも彼は描き続けた。
なぜか?
存在を実感しようとすれば描く以外手段はなかったからだ。
この絵から受ける印象は生というより死だ。
時間的には何時だろう?
夜明け前とも言えるし、夕暮れ時とも言える暗さで覆われている。
何れにしろ、短くて脆い時間帯だ。
人生なんて、そんなものだ。
死とは何か。
死とは存在しなくなるということだ。
じゃあ、「存在」って何なのだ。
何が存在しているから存在なのか。
存在とは自己の存在だろう。
じゃあ、自己とは何なのだ。
こうやって考えている自己は間違いなくここにいる。
なのに、自己が何者か分からない。
自己はどこから生まれどこへ行くのだ。
この絵を見ながら考えても解決しないのは分かっているけれど。
