・・・・・・・っということで、このブログで知り合い、実際にお会いしたブロガーの中にクリスチャンの方がいます。
ぼくが多少宗教に興味を持っているのは読者の方ならご存知でしょう。
その方は所属されているキリスト教団体を通じて、いろいろなボランティア活動をされています。
あるとき養子を迎え入れようと今準備中で、そのために現在の家を売り払って、少し広いアパートに引越したことなどが書かれていました。
ぼくはそういう行動を起こす目的というか、原動力が知りたくて、メールを送りました。
その動機にはキリスト教的なベースがあるからだと思ったからです。
まるで喧嘩を売るような調子のメールなのに、懇切丁寧な返事を頂きました。
しかし、決してキリスト教の教えに従っているからとは書かれていませんでした。
ぼくにはその動機がどうも理解できず、何度もしつこくメールの交換をしました。
宗教的な理由でないとすれば、そういう無償の行為をすること自体が「義務感から」とか、「道徳観から」とか、はたまた「気持ちがいいから」ではないかと理由をあれこれ考えました。
そう考えるのは「理屈」で理解しようとしているからで、そういう行為は理屈では説明できないことくらいぼく自身が分かっているから余計に始末に負えないですね。(^^ゞ
・・・・・・・
その宗教対話(?)が途絶えて3ヶ月のいま、こういう言葉に出会いました。
【 どれほど良いことに見えても、「~のために」行うことは、貧しく貪欲なことだ。 】
(ニーチェ: 「ツァラトゥストラはかく語りき」 )
あっ!と思いましたね。
単純だけどね。^m^
これは宗教を超越していますね。
その人のためだろうと、義務感にせよ道徳観にせよ、その行為の理由を見つけることは「~のため」にが回答になってきますよね。
自分を納得させること自体、「自分のために」が行動原理になりますよね。
【けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、「~のために」という言葉も考えも出てくることはない。 】とニーチェは結んでいます。
純粋に能動的な愛かぁ~~~~
貧しく貪欲なぼくが忘れていた境地ですね。(T_T)
いまになって、ようやく彼(クリスチャンのブロガー)の伝えようとしていたことがなんとなく分かった気持ちになりました。(^o^)/