・・・・・・・っということで、ぼくが以前から言っていることなんだけどサ、
ローマ帝国がキリストを国教化したのは、価値観の統一だと思うのサ。
森に住んでいる野蛮人のゲルマン民族、東から進入してくる騎馬民族の異教徒たち。
いくら戦っても、根本的な解決には至らない。
なぜか?
価値観が全く違うからだ。
価値観というより道徳観といったほうがいいかな?
隣に住む別の民族と仲良くするには、同じ価値観を共有することじゃないかな。
キリスト教による価値観の共有。
それが出来れば、武力による均衡より、根本的な安全保障政策だよね。
・・・・・・・
いま、日本は移民に対して厳しい政策をとっている。
そのくせ、高齢化社会は容赦なく進んでいる。
若者の労働力が極端に減って、老人だらけの社会になることは人口予測を見れば明白な未来だ。
はっきり言って、授業料免除とかの子育て世代に対する優遇政策は手遅れなのだ。
定年後10年しか生存しないという仮定の元に作られた年金制度なんて、とっくのとうに破綻しているのだ。
政府だって、知っている。
日本は沈没することを誰もが知っているのだ。
言わないだけだ。
このまま、沈没していく日本丸。
・・・・・・・
楽団の演奏を聴きながら何もせずに海の藻屑となる道を選ぶのか?
それとも生き残る道を模索するのか?
ぼくははっきり言ってしまおう。
生き残るのなら、犠牲が必要だということ。
日本が日本であることに固執することを放棄することだ。
日本であることに固執するって・・・・?
・・・・・・・
日本は移民を厳しく制限している。
若い労働力が足りなかったら、外国から補充すればいいじゃないか。
・・・これが全うな発想である。
介護ロボットに介護されるより、言葉が通じなくとも人間に介護されたほうがずっと良いに決まっているじゃないか。
しかし、日本はイヤだという。
治安が無茶苦茶になってしまう。
・・・・それは正しい。
外国人労働者を受け入れた群馬県大泉町の惨状をご存知だろうか。
分別ごみの出し方さえ守れない外国人。
新宿や渋谷駅の周囲にイラン人がたむろして、麻薬を勧誘していた時代を忘れてしまったのだろうか。
・・・・・・・
移民を受け入れるって、相当な覚悟が必要であることが想像できるだろう。
生き残るには犠牲が必要だということは、このことである。
しかし最低限、宗教の原理に基づく道徳観を移民たちが持っているなら、その宗教を理解することによって価値観を共有することが出来る可能性がある。
結局のところ、最後の砦は宗教っということになるんじゃないだろうか。