原城2 | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、誤解されがちなのが島原の乱は「宗教戦争」だったとの捉え方。

 

しかし、これは間違いとはいえなくとも正解じゃないんですよね。

 

一揆軍は37,000人、政府軍は13万人といわれています。

 

一揆軍は過酷な取立てに耐えかねた領民たちです。

 

要するに、悪名高き 松倉勝家への反乱なのです。

 

農民、漁民、商工民と領民全体が反乱の構成員です。

 

もちろんその中には、キリシタンへの弾圧に反抗するクリスチャンたちも含まれていたのですが、決して宗教弾圧がメインではないのです。

 

一揆を起こした地域も南部と北部で異なっていました。

 

もちろん参加しなかった人、無理やり参加させられた人がいました。

 

海峡を隔てた天草側も途中から参加し、いわば混成軍だったのです。

 

原城の前の海上に小さな島があるのですが、両者がそこで秘密裏に会合したので、「談合島」という別名が付いています。

 

当初、一揆軍は優勢でした。

 

破竹の勢いで幕府側を圧倒し、一時期は長崎まで占領するかという勢いでした。

 

結局形勢不利となり、一揆側は作戦としては最悪の「篭城」に決したのです。

 

・・・・・・・

 

幕府側は攻めあぐねます。

 

幕府側の総司令官が功を焦って突撃を命じ、彼自身が戦死してしまいます。

 

1637年といえば江戸幕府が成立してから間もないころ。

 

ここで、一揆問題を解決しなければ、その後の江戸幕府の存立も危うくなる。

 

交代の司令官を老中から選んだことでも、幕府の本気度が分かります。

 

最初は兵糧攻め作戦。

 

城内の食料が尽きたと判断して、総攻撃開始。

 

篭城した一揆側は男女を問わず、皆殺しにされました。

 

後世、発掘作業が行われた際、出てきた骨はことごとく首がなかったそうです。

 

・・・・・・・

 

姫松屋のオバチャン談:

 

うちは霊感なんやないんやけど、いしょこに夕方行きよったくなかやね。

なんか、怨念の漂っちいる気のしゅるんたい。

 

・・・・・・・

 

天草四郎who?

 

私には興味ありません。

 

ただ、カリスマ性を与え、総大将にするには適していたのでしょう。

 

一揆の動機は宗教弾圧に特化していたのではないことは明らかです。

 

圧政に対する領民の一揆というのが本質で、宗教弾圧に対する宗教戦争ではないのです。

 

逆に宗教は利用されたに過ぎないのです。

 

その証拠に、カソリック側は彼らを「殉教者」として公認していません。

 

・・・・・・・

 

城跡で草刈をしていたオバチャン談:

 

ウチはクリスチャンじゃなかとですよ。

 

こん辺には少なかとよ。

70人に一人くらいじゃなかやか。

 

・・・・・・・

 

それほど徹底していたのですね。

 

結局、農民たちを皆殺しにしたため、農業をする者がいなくなり、石高が上がりません。

 

その後、中国への海産物を輸出することで収益が上がりだし、クリスチャンだと分かっても厳しく取り締まらなくなったとか。

 

一方、天草では赴任してきた代官があまりにも年貢が厳しいので、半減してくれと幕府に直訴。

 

認められないとなると、切腹して抗議したとか。

 

・・・・この辺の話はウル覚えで正確ではありません。

 

・・・・・・・

 

ここで、ぼくから衝撃の問いを発します。

 

篭城する一揆側は37,000人。

 

それを幕府側は13万で取り囲んだ。

 

・・・・嘘だね。

 

あの原城跡を見たら、そんなスペースがあるはずがない。

 

ぼくの見立てではせいぜいその1/10の人数ですね。

 

一揆側は飢えて命がけで崖を下り、海藻を食べていたとか。

 

3ヶ月近くもの間、3万7千人が持ちこたえられるわけがない。

 

歴史を書く人は、実際に現場を見てからにして欲しいものです。(ーー;)

 

・・・・・・・

 

再度、城跡で草刈をしていたオバチャン談:

 

ここに来よる人が島原城ちゃり原城んほうのずっちイイっち言いおった。
ここはなんもなかけん、うちには分からんたい。

 

ぼくは、原城が好きだという、その気持ちよく分かりますよ。(^^♪