木曽義仲 | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、木曾路のスーパースターと言えば「木曽義仲(源義仲)」ですね。


平家物語や、それをベースにする演劇やドラマなどで有名ですから、わざわざぼくが書くこともないでしょう。


ですが、せっかく木曾路を旅行し、義仲記念館も訪問したので、個人的な印象を記します。


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源姓ですので、源氏側です。


源頼朝との関係は調べれば分かるのですが、面倒なので省略。


親父(義賢)と遊女との間の子(次男)だそうですから、育っていく過程でそのことが性格に影響したことは想像できますね。


彼がまだ幼児のとき(8歳?)、親父が彼の甥と戦って殺され、義仲の乳母の夫である仲原兼遠を頼って木曽にかくまわれて育ちます。


出身は北関東(埼玉?群馬?)らしいので、木曽生まれではありません。


養父(仲原兼遠)の娘(有名な巴御前)を妻にするくらいですから、見込みのある子供(青年?)であったことでしょう。


その後の戦歴(平家との戦い)を見ると、戦いにめっぽう強い資質を持っていたのは確かです。


北陸方面から入京を果たしたのですが、連戦連勝でしたからね。


倶利伽羅峠の戦いは、名前だけでも聞いたことがありますね。


京に入った後は、後白河上皇から官位を授けられ、京都の治安維持を任命されたのですが、これが上手くいかなかった。


さらに悪いことに、次期天皇の選出に口を挟んだので、法皇側から嫌われてしまったのです。


一発形勢逆転を狙って西方の平家を駆逐する戦いに出たのでしたが、痛い敗戦を味わってしまい、京都に引き返してクーデターを起こし、自ら征夷大将軍を名乗ったのです。


法皇側は頼朝に義仲討伐を依頼し、頼朝が派遣した義経に破れ戦死します。


ざっとこれが彼の生涯です。


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さて、これらの経歴から彼の人物像は以下のようだったと想像されます。


1.戦の才能からみて、とても優秀な人間であったこと。(状況判断と決断力、指導力、創造性において。)

2.戦の才能とは反比例して、政治的な才能は乏しかったようです。(貴族にゴマをするくらいの器量がなかった。)

3.義理堅い人間だった。(省略しますが、次期天皇選出時の彼の行動は悲しいくらいに不器用だった。)

4.女性にモテた。(巴御前は美人で有名ですが、正室であったのに政治的に側室にされた後も、彼が死ぬまで付き添った。)


これらを挙げれば「悲劇のヒーロー」としては完璧です。


彼は31歳(?)で短い生涯を閉じますが、多くの不運さえなければ天下を取れる立場にあったでしょう。


しかし、実際に天下を取ったのは頼朝です。


頼朝は弟(義経)や義仲より戦は下手だったにもかかわらず、政治感覚が優れていたから天下を取れたのです。


歴史というものは、ちょっとした偶然の積み重ねで、どう転ぶか分からないように見えますが、結局はその資質に合った人物が選ばれるものです。


信長が本能寺で横死しなかったら、家康の天下はなかったと想像しがちですが、歴史というものは偶然でもあり必然でもあると言えるのです。


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義仲の残した教訓は、会社勤めのサラリーマンにも十分役立つものです。


ぼく自身も、もう少しゴマをすればよかったかなぁ~~と反省させられてしまいます。(^^ゞ


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巴御前の物語も、男女の関係のあり方について教訓を与えてくれます。


源平盛衰記では、美人にも拘らずその豪傑振りを面白おかしく描かれていますが、それは作り話でしょう。(武芸の心得はあったようですが。)

 



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長野県をはじめ、彼との所縁があった富山県や石川県がNHKの大河ドラマで木曽義仲を取り上げてくれるよう、署名活動をしています。


もちろん、ぼくもノートにサインしました。(^^ゞ