・・・・・っということで、【マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙】という日本の題名。
原題は【The Iron Lady】
本人が存命中に、こういう映画を作るべきか作らざるべきか。
本人が認知症になっているとしても、ちょっとフライングだとぼくは思う。
頭脳明晰で確固たる意志を持ち、討論でも演説でも誰にも負けなかった女性が、
現在認知症で、現実と幻覚かも区別の付かなくなってしまったというこの皮肉。
その落差がこの映画の全てだ。
もちろん、イギリス初の女性首相としての苦悩も描かれる。
家庭よりも国家を優先した、その確固たる信念も描かれている。
彼女の我がままを支えた夫の存在も描かれている。
ソツのない構成だ。
だが、この映画が訴えたかったのは明確ではない。
観客に伝わらない以前に、製作者が何を伝えたいかを明確に持っていないのが原因だとぼくは睨んでいる。
最後のコーヒーカップを洗うシーンは、ある意味残酷な場面だが、それを製作者はどういう意味を込めたのか聞いてみたい。
この中途半端感はどこから来るのか?
それは、いくら認知症だといえども、本人はまだ生きているのが原因だろう。
その人の評価が定まるのは、結局死んだ後ではないだろうか。
そういう意味で、フライングだと思う。
・・・・・・・
もっとも、メリル・ストリーブスの演技はぴか一だ。
上手すぎて文句が出るのは、この女優くらいじゃないだろうか?