・・・・・・・っということで、そろそろボーナスが出る頃である。
ウチの会社にも一応組合というものがあって、ベースアップを経営陣と何度か交渉して、妥結という手順を踏んでいる。
その交渉プロセスは完全に形骸化していて、最終的には会社側に押し切られ、前年より低い額を「勝ち取って」オシマイとなる。
それにしても、組合弱くなったなぁ~~
全然迫力がない。
ぼくらの世代の人たちはよく覚えていると思うけど、このシーズン、工場などには赤旗が立っていて、赤ハチマキをした社員たちが深刻な顔をしてビラを配っていたのもだ。
公共の交通機関でもストを強行して、テレビでは運行状況を速報していた。
あの頃のエネルギーはどこへ行ってしまったのだろう?
日本人はもう「本気で」怒ることを忘れてしまったのだろうか?
・・・・・・
ぼくにはこれに対する意見があって、その分析結果は以下の通りである。
【デジタル化したから】
である。
昔は、給料は月給袋に入っていて、毎月受け取ることになっていた。
普通のサラリーマンは、その袋をそのままカミサンに渡し、カミサンは一応うやうやしく亭主から受け取っていた。
心はこもっていないかも知れないけれど、「毎月ご苦労様」なんちゃってね。
月給袋にはお金はもちろんのこと、明細書が入っていて、一円玉に混じって明細書が袋からポロリと出てくる。
その明細書は大体において、細長く、経理の女の子がいちいち鋏で切ったものだった。
ぼくのオフクロなんか、その細い紙をノートに糊で丁寧に貼っていたものだ。
袋の表には毎月印鑑を押す欄が印刷されていて、中身を出すとその袋を返還していた。
だから、1年後には袋がヨレヨレになったものだ。
ボーナス時は、直接部長から手渡しされ、退社時には社員が集められ社長から訓示があった。
・・・・・・
今の会社では、以上の「儀式」は殆どなくなってしまった。
お分かりと思うが、以上の儀式には【質量】があった。
一か月分、あるいは半年分の労働報酬の結果を、質量で感じることが出来た。
質量は手の感触で、あるいは視覚で捉えることが出来た。
細い明細書にも質量があった。
ボーナスが前年より減れば、当然給料袋は薄くなる。
その薄くなった数ミリ(あるいは数グラム)をカミサンたちは動物的感覚で察知し、収入減によるダメージを身をもって実感することが出来たのだ。
そしてその結果、ダンナに対するねぎらいの言葉には棘が入る。
それを聞くと、ダンナは辛い思いをする。
オレの稼ぎが悪いために、家族が辛い思いをするのだ。
ウゥ~~ン、もっと頑張らねば
・・・・・・と発奮するのである。(あるいは、自暴自爆になって酒をかっ食らうか。)
・・・・・・
だが、今の時代、給与は自動的に銀行口座に振り込まれる。
明細は、イントラネットで調べられる。
どうしても、月給額をカミサンに知らせたければ、プリントアウトしなければならない。
だが、そんなダンナはどこにもいない。
そう、「デジタル化」されたのだ。
デジタルには、質量がない。
しいて言えば、質量ゼロである。
自分の一ヶ月働いた結果は、質量ゼロで示される。
・・・・・・
論理の飛躍だといわれるかもしれないが、この影響は大きい。
昔のように月給袋を渡すことから生じる効果、即ち:
会社への忠誠心。
家族に対する義務感。
夫婦間の愛情。
労働への意欲。
出世意欲。
そういったものが、デジタル化されたことによって著しく希薄化されたのだ。
だから、デモもしない、ストもしない、給料日を忘れてしまい、仕舞いにはいったい自分がどれだけ給料を貰っているかも知らない、ぼくのようなサラリーマンが日本中にあふれることになるのである。