・・・・・・・っということで、【臥薪嘗胆】という言葉がある。
これは中国の故事から来ていて、「屈辱を忘れないようにする」という意味とされている。
そのときの「悲しみ」や「恨み」「憎しみ」を忘れるなという復讐の意味に用いられてる。
・・・っということは、人間は忘れるという機能を心に備えていると言っているのと同じだ。
受けた屈辱、悲しみが如何に大きくとも、いつかは心の傷は癒え、それを乗り越えまた先に進もうとする心を芽生えさせる重要な機能だといえる。
それを、何時までも心に秘めておくために、寝心地の悪い薪の上に寝たり、苦い肝を嘗めなければならないのである。
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さて、オウム事件である。
昨日、全ての裁判が結審したとのことだ。
松本智津夫が56歳、最後に判決を受けた遠藤誠一が51歳だから、大体この辺の年齢層による犯行だったのだろう。
坂本堤弁護士一家殺害から22年も経ってしまったことに、感慨を覚える。
起訴された被告の内、13人もの死刑が確定したとのことである。
13人だ。
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ここでまた出てくるのが、死刑問題だ。
いやな問題である。
そもそも、復讐という心の作用はあまり立派なものではないと考えられている。
復讐とか恨みは、心を歪めてしまう危険な感情であることを、なんとなく知っているからだ。
それよりも「許し」の感情のほうがずっと清らかである。
肉親を失った悲しみをそのまま22年間も忘れずに保つのは容易ではない。
自分がイヤだといっても、裁判のために生活を犠牲にし、常に係わり続けなければならない。
なんと空しい時間と労力の浪費だろう。
肉親を奪った相手から、なおも悩まされ続けられるのである。
極刑を求めずとも、いい加減相手を許して、早く楽になりたいという感情が一度も生じなかった遺族は居ないであろう。
いくら極悪非道の犯人だって、死刑は新たに人間の生命を奪う行為である。
間接にせよ、その行為に係わるのは誰だって嫌なことだ。
まったく関係のないぼくらだって、嫌な気分なのだからだ。
13人ともなると気が重くなる。
ましてや、犯行当時30歳前後なのだ。
無期懲役あるいは終身刑でもいいんじゃないか。
そういうふうに心は揺れる。
そんな心の揺れを抑えるために、臥薪嘗胆をしなければならないのか。
臥薪嘗胆してまでも、犯人に極刑を下す意思を持ち続けなければならないのか。
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さて、ここで考えなければならないのは、遺族が犯人に死刑を求めているのは復讐のためなのだろうかということである。
最初はそういう感情が大きかったと思うが、今はそれがエネルギー源ではないだろう。
だって、心というものは時間とともに癒す機能を持っているからだ。
じゃあ、求めているのは犯人の償いだろうか?
犯人の反省だろうか?
改悛だろうか?
とんでもない。
肉親を返してくれ。
願うのは、ただそれ一つだけだ。
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死刑問題でいつも考えさせられるのは、刑の執行は犯人に同等の「償い」をさせるためなのだろうかということである。
要するに、人を殺した罪と等価の償いは死であるとの考えである。
反論を承知で言ってしまえば、肉親にそれを要求する権利も義務もないのじゃないだろうか。
ましてや、ぼくらもそれを求める資格はないのじゃないだろうか。
権利を持っているのは被害者だけじゃないだろうかということである。
死者に権利がないなんて、とんでもない間違った考えである。
犯行に及ぼうとする犯人を前して、身を守る手段を持たなかった不幸な被害者が、もし、自分を守る手段をそのとき持っていたとすれば、確実にそれを使ったと確信するのである。
法というものはそういう無念の心を抱いたまま死んでいった被害者に成り代わって、犯人に反撃を加える行為だと思う。
もし、それが認められないなら、正当防衛という制度は存在し得ないことになるではないか。
死刑をなくしても犯罪は減らないという主張がある。
だが、一見か弱く、何の防衛や反撃の手段を持たない相手だって、目には見えない法という反撃手段を持っていると犯罪者が知れば、十分な抑止力になるのは間違いないはずだ。
厳正な裁判の元で死刑判決が下ったのなら、
法に基づき、淡々と刑を執行すべきである。