・・・・・・・っということで、昨日は言葉が足りないと書いた。
言葉が足りないばかりに、失敗すると。
だけれども、言葉で失敗することも多い。
いや、言葉で失敗することが殆どだともいえる。
例えば「失言」。
この失言のために何人の大臣が辞めていったことか。
だから言葉は多すぎると、却ってマイナスになるのだ。
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一方では、少なすぎて失敗し、
もう一方では、余計な一言のために失敗する。
なぜか?
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大臣が失言問題を起こしたとき、大体において、
「前後の話の流れを聞かず一部を取り出して攻撃されるのは敵わん」
という言い訳をする。
だが、政治家は「言葉が全て」だ。
言葉によって、自分の信条に沿った方向に国民を誘導し、政敵に対抗する。
いわば、政治家は言葉のプロといえる。
国民もそういう目で見ている。
政治家は最適な言葉を自由に駆使する能力がなければならないのだ。
プロだからこそ、短い簡潔な言葉で感銘を与えられなければならない。
言い訳は通用しないのである。
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一方、ぼくらのような一般人はどうだろう?
言葉のプロではない。
大体において口下手だ。
口下手だからこそ、言葉が少なくなる。
もともと不完全である言葉を使いこなすだけの能力に乏しいのだ。
そうならば、言葉を発することによって誤解されるより、避けるほうを選択する。
それでいいのだろうか?
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たとえば、ここに落ち込んでいる人がいる。
あるは、心が病んでいる人がいる。
医者なら、薬を投与するかもしれない。
でも、ぼくらにできることは何なんだろう?
やはり言葉しかないのじゃないか・・・というのがぼくの意見。
黙ってギュッと抱きしめる。
遊びに誘う。
プレゼントを贈る。
そんなことも一つの方法だけれども、ホントーの心を伝えるのは、言葉じゃないのだろうか。
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もちろん落ち込んでいる人間を更に落ち込ますことも、言葉は可能だ。
言葉によって勇気付けるより、そちらの方が余程簡単なはずだ。
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前に言ったように言葉は不完全だ。
しかも使う人の能力によって、生きたり死んだりする。
このように、言葉は使い方が難しい厄介なツールなのだ。
だけれども、根気良く使い続けるしかぼくらにはない。
言葉で誤解されても、結局言葉でしかその誤解を解くことができないのではないだろうか。
誤解を恐れず、数多くの誠実な言葉の積み重ねによって。