・・・・・・・っということで、続きを書かなくっちゃ。
エッと、なんだっけ?
1.自分というものは所詮言葉に過ぎない。
2.自分というものを突き詰めていけば、その実態はかなり怪しい。
というところまで書きました。
全体的に何を言おうとしているかというと、人間という生き物は「自分に固執しすぎている」ということ。
悟りをひらいて、無我の境地までは無理だろうけれど、そういう風に自分を考えれば、ずっと楽になるんじゃないか。
大体これで言いたいことはほぼ全部なんですが、もう少し自分というものの不思議を書いてみたいと思います。
・・・・・・
自分にとってこの世の中とはなんでしょう?
極端な言い方をすれば、目に映る映像にしか過ぎないのじゃないでしょうか?
もちろん、五感を通じて感じれらるものでもあります。
あなたはぼくにとって目に映る映像でしかありません。
もちろん触ったり、声を聞くことによってもあなたの存在は確認できます。
でも、あなたが何を考えているかは、本当は分かりません。
推測するだけです。
だって、あなたたとぼくは別物であり、ぼくという一方的な視点でしか捉えられません。
あなたとぼくだけでなく、世の中全てがぼくを中心に認識されています。
ぼくが寝ているときは、世の中がどう動いているなんて、関係ありません。
もっといえば、この世の中というものは自分が認識した以上のものではないのです。
そして、ぼくが死んだらこの世は(ぼくにとって)無になるのです。
このような考え方は、どこも間違っていないでしょう?
でも、日常生活をしている中で、常にこのようなことを意識しますか?
自分というものは自分の中だけに籠もっていますか?
もし、自分というものが自分から一歩も外に出ないのであれば、すごく自己中心的な考え方しかできないはずですよね。
普通の生活で経験することなのですが、視点は自分から離れて、外から自分を眺めたり、相手の立場に視点を移したり、TVで国際ニュースを見れば視点はその国に飛んだりしますよね。
街の雑踏の中を歩いていたって、TVカメラのような視線を取らずに、群衆の中の自分という捉え方をしますよね。
これって、不思議だと思いませんか?
本を読んでいても、映画を観ていても視点は自分から離れて、主人公の視点に容易に移動しますよね。
もちろん、ぼくが死んでも世の中は何ら変わらず動いていく。
そういうふうに考えていくと、自分て何なんでしょうね?
自分は自分だけれども、自分のものだけの自分じゃないということじゃないでしょうか。
やっぱりここでも、自分とは自分という言葉に過ぎないという結論に至るのですが、どうでしょう?
以上、このシリーズを終わりにします。