・・・・・・・っということで、タイガーマスクの伊達ナンたらによるプレゼント攻勢。
このニュースになにか違和感を覚えるぼくは、余程のへそ曲りなのだろうか?
実は、このニュースに違和感を覚える要素は何もない。
それを知っていながら、違和感を覚えているのだから、自分でも解釈に困っている。
【児童養護施設】という施設が存在していたことを知らなかった。
(何となくあるとは想定していたが。)
その児童養護施設という存在を知らしめたという功績は、ものすごく大きい。
どの児童養護施設も、資金不足で困っているという。
国からの支援はあるものの。
・・・・・・
そういう意味で、伊達ナンたらの着眼点はスゴイものがある。
他の施設(どんな施設があるか知らない自分が恥ずかしい。)よりも、児童養護施設を選んだ、
彼(彼女?)のセンスはピカイチだ。
・・・・・・
それなのに、違和感を覚える自分を恥じてしまうくらいだ。
・・・・・・
でも、違和感は残る。
・・・・・・
その違和感の本質は何なんだろうか?が、今日のテーマだ。
実は、彼の(彼女でもいい)センスを賛美したばかりだが、漫画のコピーなのだ。
彼自体、児童養護施設の実態を知っていたかは疑問だ。
たまたま、漫画の設定が上手く現実と一致しただけだ。
彼はここまでの広がりは意図していなかったはずだ。
そこまで、彼は頭が良くないと断定してしまおう。
ぼくが、興味を持つのは、どうしてここまで広がったか、
その原因である。
・・・・・・
結論から言おう。
これまでの寄付行為の欠点を、(意図せず)巧妙に突いたのがこのヒットの原因なのである。
この結論は良く分からないであろう。
説明を以下に記す。
・・・・・・
世の中には善意に溢れた人は多い。
予想以上に多い。
善意の人で世の中溢れているといって差し支えないくらいだ。
その中に、自分も入りたい気持ちはあるが・・・。
それはさておき、
現在の寄付行為は、どれも「胡散臭い」。
実にウサンクサイ。
自分が稼いだ少ない給料の中で、善意に溢れた人は少ないけれどと思いながら、捻出する。
捻出先はどこでもイイ。
赤十字だろうが、UNICEFだろうが、ハイチ地震を救おう基金(?)ってなところに寄付することになる。
ところが、その自分にとっては「なけなしの金額」は、そういう慈善団体に入金した途端、
「大したことない金額」に変身するのだ。
大なり小なり、寄付行為とはそういうものだ。
・・・・・・
ぼくの昔の記憶で言うと、渋谷の交差点を渡っていると、
カンボジアの孤児に対する寄付金を募っている連中がまとわり付いてきた。
カンボジアの子供たちの悲惨な写真を目の前に見せ付けられてだ。
だが、ぼくは知っていた。
彼らは腕に赤い腕章なり、ハンカチを巻いていたのだ。
そう、彼らはクメール・ルージュだったのだ。
ルージュって、「赤」なんですね。
ポルポトってナニ?っと
知らない人は、調べてください。
ぼくは、こういう経験があるので、寄付活動の胡散臭さが刷り込まれてしまっているのです。
・・・・・・
そういう自分にも慈善の気持ちはある。
だが、正直に言おう。
ぼくの慈善行為なんて、大海の一滴にしか相当しないのだ。
ところが、今回の慈善行為はそのウラをかいている。
自分の慈善行為が、明確に報道されるのだ。
それも、大々的に。
どこそこの県の、ナニ村にある誰にも知られていない児童養護施設に、
伊達なにがしの手紙を添えて、寄付するだけで、
それは、大海の一滴ではなくなってしまうのである。
自分の寄付行為が、これほど大々的にありがたがられたことはあるだろうか?
UNICEFに寄付するより、ずっと気分がいい。
・・・・・・
そういうことなんです。
これがぼくが違和感を覚える理由なのです。
いままでの寄付システムでは、自分の慈善行為はワン・オブ・ゼムになってしまうが、
自分の寄付金額が大したことないと百も承知の上で、
TVを観ていれば、「それって、オレの寄付なんだよねぇ~~」っと自己満足が得られる。
自分が名乗らないのはアタリマエだ。
1億円を寄付したなら、名乗りたくなるが、
ランドセル程度で、名乗り出るにははずかしい。
でも、効果は1億円と同じだ。
・・・・・・
これがぼくの違和感の分析の一部ですが、
寄付というシステムを見直す上で、今回の現象は大いに参考になると思う。
お分かりと思うが、なにもケチを付けている訳ではないんです。
慈善の気持ちを持った人たちの好意を、どう生かすか真剣に考えて欲しいと言っているだけなのです。