私の父は母が大好きでした。
私が幼い頃から父本人がそう言っていました。
父と母は喧嘩することもありました。
でも、 結局いつも仲直りしていました。
父と母は仲のいい夫婦だったと思います。
父の癌が発覚したとき、もちろん家族全員がショックでした。
でも、一番ショックだったのはもしかしたら父本人ではなく、母だったのかもしれません。
肺癌と肝臓癌が見つかったのが約9年前。
転移ではなく、おそらく同時にできた癌らしいです。
そこから、父と母一緒に癌との戦いが始まりました。
手術に放射線治療、抗がん剤…
それらの治療は父にとって辛いものが多かったと思います。
父と母とで主治医から治療の説明を受け、治療を受けるかどうか決めてきました。
時々、難しい内容や判断が必要な時は、看護師で知識もある兄や義姉が付き添って主治医の話を聞いてくれました。
父は主治医が最善だと思う治療を断ることはほとんどありませんでした。
ピピウが生まれて、NICU退院後も1日20時間近く点滴に繋がれ、日本へピピウを連れて行くことができなかったとき…
父は「ピピウをこ手に抱くまでは死ねない。だから、がんばる。」と兄夫婦や母の前で言ったそうです。
確かに"ピピウに会うこと"は父にとって、大きな目標となったと思います。
でも、辛い治療を長年に渡り続けてきた一番の理由は"母のため"だったと思われます。
もう数年前のことだと思うのですが…
義姉が父と治療について話していたとき、父は「K子(私の母)のために治療を受ける。」と言ったそうです。
父は大好きな母を一人残すわけにはいかないと思っていたのでしょう。
3年ぶりに日本の実家へ帰った今回。
父は毎日、何度も私に
「K子を疲れさせるな。」
「K子を手伝ってやってくれ。」
と言いました。
ピピウが甘えて母に抱きついたり、しつこく何かお願い事をすると、
「ピピウ、あかん!K子が疲れる!」
とピピウを叱ることもありました。
とりあえず、ずっとK子、K子と、母のことを気遣うのです。
だから、昨日のブログに書いたように、
兄が母と私とどっちが大事かと聞いたら"シェコ"と答えた父にみんなで爆笑だったのです。
そんだけ、K子、K子と
言っておいて、
シェコを選ぶんかい!
…と。笑
でも、父が最期の最期まで母のことを大好きだったのは確実です。
私は母のことが大好きな父が大好きでした。
お互いのために生き、最期の時まで思いやれる…
本当にそんな人生のパートナーに、私とダンナもなりたいなと思うのでした。
インスタしてます。
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