ピピウが生まれてから2 | 憧れの(?)Italia Firenze生活

憧れの(?)Italia Firenze生活

イタリアはフィレンツェに住みつき早十数年。
日本語を教えながら、イタリア人の夫と息子と暮らしています。
私の平凡なイタリア生活の実態を御紹介♪

※2017年3月に26週3日で生まれた息子のことを日記を元に書いています。ですので、記事の内容は過去の事です。

 
〜息子と初対面〜
 
出産後、すぐに新生児科のドクターの手に渡った息子のピピウ。
 
立ち合ったダンナは生まれた瞬間ピピウを見ることができましたが、私はできませんでした。
 
出産後、分娩室の隣の部屋で2時間の安静。
 
ダンナがずっとそばに居てくれました。
 
ベッドに横になっていると、ピピウが運ばれたNICUの看護師さんが来て、これからピピウが受ける治療などについての承諾書へサインを求められました。
 
ダンナが書類に目を通し、サインをしている間、看護師さんは私のところへ来て、
 
「今、ドクターたちが赤ちゃんを色々チェックしています。お母さんも今は少し休んで、落ち着いたらいつでも好きな時にNICUに会いに来てあげてくださいね。」
 
と。
 
私は「息子を助けてください。」と言いました。
 
看護師さんは「できる限りのことをします。」と答えました。
 
 
 
 
そして、出生体重を聞きました。
 
 
1000g。
 
 
26週で生まれた割には大きい方です。
 
分娩室に運ばれる前のエコーでは予想体重1000gと言われていましたが、新生児科医の予想は700〜800g。
「1000gだったらいいんだけど…週数からいってその可能性はほぼないわ。」ということでした。
 
早産で生まれる赤ちゃんにとって出生体重はやはり重要なようです。
✴しかし、出生体重が500gの赤ちゃんでも、元気にNICUを卒業していくのを私は実際にこの目でみました。ですので出生体重が全てではないと思います。
 
予想よりも大きく生まれてくれて、少しほっとしたのを覚えています。
 
 
 
 
2時間の安静時間を経て、自分の病室へと一旦戻りました。
 
その後、すぐにNICUへ。
 
産婦人科病棟からNICUまでは近く、歩いてダンナと行きました。
 
 
 
NICUへはカメラつきのインターホンを鳴らして入ります。
両親のみ24時間面会可能です。
 
中に入り、看護師さんに息子の名前を告げました。
 
看護師さんに連れられ、NICUの奥へと進みます。
 
一番奥の3方壁に囲まれた場所に保育器があり、ピピウはその保育器の中にいました。
私が出産したフィレンツェ大学付属カレッジ病院のNICUは患者の赤ちゃんの保育器、またはベッドは一人一人3方の壁に囲まれて、プライバシーが守られています。
 
 
保育器をのぞき込むと、ビニールに包まれた小さな小さなピピウが毛糸の帽子をかぶせてもらって、そこにいました。
 
色は赤黒く、赤ちゃん特有の脂肪もなく、骨と皮だけの小さな小さな赤ちゃん。
 
多くの管に繋がれ、多くの機械に囲まれていました。
 
こんなに早く生んでしまって…申し訳ないと思いました。
そして、かわいいと思いました。
 
あなたが、数時間前まで私のお腹にいたんだね。
あと3か月間、お腹にいさせてあげたかった。
 
 
 
 
ドクターが来て、説明がありました。
 
動脈管が大きく開いているため、それを閉じるための薬の投与を始めると。
その他、すぐに命に関わる症状は“今のところ”見られないけれど、明日、心臓と脳のエコーをするということでした。
 
その後、看護師さんからNICUの規則について説明をしてもらい、私は病室へ戻りました。
 
戻った病室には搾乳機が置いてありました。
 
しばらくして、助産師さんが来て、これから3時間おきに搾乳するよう言われました。
もし、母乳が出た場合には、数滴でもいいから教えてほしいと。
すぐにNICUのピピウのところへ持って行くとのことでした。
 
疲れ切っていたので、3時間後に起きられるかどうか心配でしたが、その夜は結局、一睡もできませんでした。
 
ピピウが生きて生まれたくれた喜びと、これからの不安が混じった複雑な夜でした。
 
 

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