イタリアでは死ねば英雄? | 憧れの(?)Italia Firenze生活

憧れの(?)Italia Firenze生活

イタリアはフィレンツェに住みつき早十数年。
日本語を教えながら、イタリア人の夫と息子と暮らしています。
私の平凡なイタリア生活の実態を御紹介♪



ちょっとキツイ内容になるかもしれません。


一個人の私的見解だと思っていただければ幸いです。







この夏に入ってから、イタリア各地で若者が死亡するという


事故か事件かよくわからない出来事が起こってるのをニュースで耳にします。




10代の子がクラブに行って、そこで売買されていたドラッグを購入、使用し死亡。


ドラッグを販売していた人とクラブは関係はなかったものの、


クラブ内での出来事ということでクラブは営業停止処分。



他にも同じく10代の男の子と女の子がアルコールを飲んだ後死亡。(それぞれ違う町)


飲み物に薬物を混入されたか、それとも本人が認識したうえでの飲酒、ドラッグ使用だったかは私の知る限りまだ不明。



そういった事件が起こった市の市長が「まず第一に家庭で親たちが子供にしっかり躾をするべき。」といったようなコメントをし、賛否両論を呼びました。








イタリアって本当に不思議なところがあって、なぜか


死ねばみんな英雄になるんですよね。





例えば、上記のような事件で若い人たちが亡くなるのは大変残念です。


「死んであたりまえ。」とは思いませんが、


幼稚園児ではないのですから、善悪の判断がつく年齢なのですから、


同情はしても、「彼らは間違っていない。それよりも管理できなかった大人や社会が悪いんだ。」


とは第三者として思いません。



ところが、イタリアの場合、どんな理由であれ、死ぬと…


なぜか親族が「○○のせいだ!」と責任転換ともいえる理不尽なことを言い出し、


必要以上に被害者ぶる。


メディアにとりあげられると、葬式でも出棺の時は拍手喝采とかで、


そりゃもう、英雄あつかいなわけですよ。





いや、いや、違うんじゃない?





たとえば、イタリア軍の人が、戦地に行っていて、不慮の事故でなくなったとします。


その人の葬儀で、拍手喝采のなか出棺というのは理解できます。





どんな理由であれ、誰かの死というのは残念です。


でも、ドラッグに手を出し、それで亡くなった人を英雄扱いし、


残された親族が社会悪の被害者になるというのは、


やっぱり違うんじゃない?





確かに、ドラッグが10代の子たちにも簡単に手に入る社会は悪いと思います。


大人たちみんなの責任であるとも思います。


でも、責任は社会とか、国といった大きな単位だけではないはず。


友達とか、家族とか、そして本人とかにも大きな責任がある場合が多いと思います。






先日、ニュースでトスカーナ州アレッツォ県のある町で、


若い子たちが、車が通る道にわざと飛び出して、


勇気を試す、スリルを味わうという“遊び”をしていることが通報され、


まだ被害者は出ていないものの、


これからも被害者が出ないように警察がパトロールを強化しているようです。




もし、その“命をかけた遊び”で、敗者になり、本当に車にひかれて死んでしまったとしたら、


死んだ子供の親は「うちの子は悪くない!ひいた車の運転手が悪いんだ!」と言うのでしょうか?


イタリア社会は「死んだ子がかわいそうだ」と言うのでしょうか?






おそらく、イタリア人にくらべ、日本人は同情ということをあまりしません。


“自業自得”という言葉があるように、


その人が何をしたかによりますよね。


上に書いたような事件が起これば、


もしかした日本人の親は責任転換するどころか


「自分の子供が社会に、多くの方に迷惑をかけた。」と詫びる人もいるでしょう。


イタリア人からしたら、そういった考え方の日本人はとても冷たい人間に見えるんだろうな~。





死ねば全てが許される…というのはキリスト教的考えなのでしょうか?


仏教なんか死んでも生きてるとき悪いことしてたら地獄に落とされますからね・・・。


そう考えると、やっぱり日本人は厳しい環境に生きてるなぁ~。





そんなことを思った、8夏後半なのでした。









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