ペギー | 憧れの(?)Italia Firenze生活

憧れの(?)Italia Firenze生活

イタリアはフィレンツェに住みつき早十数年。
日本語を教えながら、イタリア人の夫と息子と暮らしています。
私の平凡なイタリア生活の実態を御紹介♪

ダンナの実家の犬。


名前はペギー。


メス。


雑種。






私がペギーに会ったのは2004年の夏でした。


当時、実家暮らしだったダンナに実家に招待されて出会いました。


私よりイタリア語を理解してたペギー。

ペギーをうらやましく思ったものです。




子どものころから、私は金魚と小鳥以外の動物を飼ったことがなくて、

どうしてペギーに接していいかわからず、

最初は犬が家の中にいるのがいやだったし、

ペギーにペロペロ舐められるのも嫌でした。



でも、ペギーはそんなことはお構いなしに、

時々しか顔を出さない私をちゃんと覚え、

ダンナの実家のドアを開けると、

タッタッタッタッ…とペギーの近寄る足音が聞こえ、

いつも一番に私を迎えてくれました。



当時、イタリア語が不自由だった私。

ダンナの両親と会話が続かず、気まずい雰囲気になったとき、

「なでて」「あそんで」と私のところに寄って来たペギー。

ペギーは私に助け舟を出してくれてたんだと思います。





そのうち、ペギーが家の中にいるのも、ペギーに舐められるのも慣れました。


どうなでればペギーが喜ぶのかも分かるようになりました。


怖いとも思わないし、汚いとも思わなくなりました。



それからです。他の犬もかわいいなと思えるようになったのは。


犬への接し方が分かるようになってきたのは。




「ペットは家族の一員だ」なんて信用していなかったけれど、

なんとなくわかるようになりました。






2006年。

まだ結婚する前の年。


ダンナとバイクで事故に合い、

私は打撲、ダンナはひざの骨を折り入院。


当時は結婚はもちろん婚約だってまだしていなかったのに、

ダンナの両親は「息子が歩けるようになって、またシェコと同棲ができるようになるまでは…」と、

私をお家に招待、そして看病してくれたんです。



事故の当日の夜、ダンナはそのまま入院、私はダンナの実家に行って、用意されたベッドで寝てました。

すると、ペギーがやってきて、一晩中私の側にいるのです。


別にそこはいつもペギーが寝ている場所ではありませんでした。




結局、ペギーは私の打撲が治るまで、毎晩私の側で寝ていました。


ダンナの両親は「ペギーは今、誰が一番つらいか分かるんだよ。」と言っていました。



私は「まさか」と思ったものの…


ダンナが退院してからは、歩けないダンナの側にずっといるのを見て、

「あぁ、本当に分かるんだな。」と納得しました。



それ以来、もっとペギーを近くに感じて、

実家に行ってはよく遊んだし、いっぱいいっぱいなでたし、

シャンプーもよくしてやりました。



所詮、大変な世話をするのはダンナの両親なわけで、私はいいとこどりだったわけだけれど、

ペギーは私にとっても家族だったし、大切な大切な存在でした。


私の初めての犬でした。









でもお別れは突然やってきました。





日曜日の夜。


その日はたまたまダンナの妹夫婦と外で食事をしてて、

ちょうど食事が終わって、レストランの側の公園を散歩している時でした。


ダンナの携帯が鳴りました。



ダンナのマンマからです。



ペギーがひどく吐いていると。


この時間でも診察してくれる動物病院はどこかと。




私たち夫婦もダンナの妹夫婦もすぐに車で実家へと向かい、

夜も開いている動物病院に4人でペギーを連れて行きました。


意識はしっかりしているけれど、呼吸が荒い…。




日中は普通だったのに、どうしたことか。






動物病院に連れて行き検査。


熱もない。


レントゲンもエコーも特に異常は無し。


ただ、おなかにガスがたまっていると。




点滴をしてもらい、少し呼吸も落ち着いてきたようでした。








ペギーは翌々日、ダンナの両親と2ヶ月、サルデーニャ島へバカンスへ出かけることになっていました。

長旅に耐えられないかも。今回はフィレンツェに残して、私とダンナが世話をしようという話になりました。


でも獣医さんは、「特に異常は見られないから少し様子を見ましょう。明日の朝、また来て下さい。もっと詳しい検査をしましょう。それで状態も落ち着いて、問題がなければ、サルデーニャにも行けるでしょう。」と。






午前0時。


動物病院を出て、実家へとペギーを送って行きました。


しんどそうだったけど、呼吸は落ち着いてきてたし、なんだか元気になってきているようでした。



「早く元気になるんだよ。」「明日、また病院に行こうね。」とみんなでペギーに声をかけ、

いっぱいなでて、ダンナの実家を後にしました。









午前3時半。


ダンナの携帯がなりました。


どうやらマンマから。



ペギーがまた吐いて、動物病院に連れていかなくてはならないのかと思い、私も起きました。



ダンナが電話を切った後、


「またペギーが吐いたの?」


と聞くと、



「ペギーが亡くなったよ。」




耳を疑いました。




それから私もダンナも言葉はなく、

ただ、涙が出てきました。

胸が苦しくなりました。


ベッドに戻っても、私もダンナも眠ることなんてできませんでした。





昨日まで、あんなに元気だったのに。


普通に遊んでいたのに。











夜が明けて、ダンナはどうしても外せないアポがあり、仕事へ行きました。

ダンナも泣いていました。


私はダンナの妹が実家に着くのを待って、私も実家へ行きました。




冷たくなったペギーがいました。




ダンナの両親の話を聞くと、

夜中、突然また急に呼吸が荒くなり、

かと思うと…

荒かった呼吸は完全に止まってしまったそうです。



ほんの数分の出来事だったとか。



ダンナの両親に見守られて、そんな苦しんだ様子もなくペギーは逝ったそうです。





マンマは、

「最後の最後まで私たちがいたし、

あなたたち4人が動物病院に連れてってくれたから、

逝く数時間前までペギーは家族全員と一緒にいることができたね。

もしこれがサルデーニャに行ってからだったら…。

ペギーはあなたたちにお別れが言えなかったものね。

みんなに可愛がられて、ペギーは本当に幸せな犬だったよ。」

と。




それから、私とダンナの妹と、ダンナのパパとで動物病院にペギーの遺体を持って行きました。


最後のお別れです。


昨晩ペギーを診てくれた獣医さんの1人もいて、挨拶しに来てくれました。











誰かがこの世からいなくなることを、こんなに悲しいと思ったのは、

きっと中学生の時に祖父を亡くして以来だと思います。



犬の寿命は人よりも短い。



ペギーは12歳と7ヶ月の人生でした。




みんなが言うには、犬としては長くもなければ短くもない一生だということですが…。




もっと、もっとペギーと一緒にいたかった。






家族全員、目を腫らしていました。

みんなで泣きました。






小さいころ、親に犬が欲しい、猫が欲しいと言ったことがあります。


私の両親はダメだの一点張り。


理由を問うと「死んだ時にかわいそうだから。」という答えでした。




その答えが子どもながらに納得できましたが…


そのときは、こんなにも悲しいことだとは想像していませんでした。


今、知りました。















おそらく、まだペギーがいなくて寂しい日は続くだろうけど、

ペギーにありがとうってたくさん言いたい。


楽しい思い出をありがとう。


いつも助けてくれてありがとう。


絶対にペギーのこと忘れないからね。


みんなペギーのこと大好きだったよ。




どうか安らかに眠ってね。



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