つづき


2.煙草


「あと一本吸ったら帰るから。」


玲子は下着姿のままキッチンの換気扇の下で煙と共に吐いた。

左手にはICEPEARLと書かれている煙草の箱が握られていて、ライターが押し込まれてるせいかパンパンになっていた。


玲子とは前の仕事で知り合った。


かつて僕は喫煙者で、全ての喫煙者がそうであるように、絶望していた。


だんだんと世間から迫害されていくにつれて、喫煙者というものの仲間意識は強くなっていたように感じる。


今はもう存在しないオフィスビルの喫煙所で、ライターを忘れた玲子に僕のを貸してあげたのが始まりだった。


その時の、貸してもらって当然という態度が今振り返るととても玲子らしいと思う。


僕の転職と禁煙で玲子と一服することは無くなったけど、その後も関係が切れることは無かった。


「泊まっていけばいいじゃん。」

正直なところどっちでも良かったけど、なんとなくそう言った方がいいのかと思ってそう言った。


「明日朝早いのよ。返ってから家でやらないといけない仕事もあるし、あとうちの人明日帰ってくるらしいから。」

わかったと答えて、僕は起こしていた身体を横に戻して天井を眺めた。


うちの人とは玲子の彼氏だ。

10年以上同棲しているけど籍は入れていなく、時々ふらっと出かけては何日も帰ってこなかったり、逆に家に引きこもっていたりするらしい。


それ以上のことは何も知らないし、知りたくもない。


玲子は床に散らばった服をそれぞれ集めて、途中でベッドに横たわる僕に口づけをして、背を向けて服を着ていた。


その時初めて玲子の今日の服装のコーディネートを知った自分に嫌気がさした。


玲子は四十を過ぎているけど年齢の割には若く見える方だった。


「今日も綺麗だね。」

その綺麗な背中に向けて言った。


「何が目的?まぁあなたが卓球に課金してるように、私は自分に課金してるのよ。もっと言ってもらわないと割に合わないわ。」


金色のピアスを通し終えた玲子は言った。


「ごめん。」


「そっちじゃないわよ。面倒だからヘアピンは置いておくわ。こういうのマーキングって言うんでしょ?」

テーブルに置かれた缶ビールの隣に二つのヘアピンが並べられていた。


「他の娘に見つからないように私が出たら隠しておかないとね。」


わざと無邪気に笑うような、意地悪なそぶりを見せる玲子が愛おしかったし、憎たらしくもあった。


「いちいちそんな事言うなよ。他に女なんていないよ。」


玲子の帰り支度が終わりそうだったので、ベッドから出て答えた。


「ふーん、でも卓球って女の子もいるんでしょ?」


「いるけど全然話さないよ。」


iPhoneの充電コードを抜きながらあっそうとだけ言って、赤い革のハンドバッグにそれをしまった。


僕はジーンズを履いて、Tシャツとパーカーを着た。

「駅まで送ってくよ。雨降ってるみたいだし相合傘でもしながらさ。」


少し疲れていたのか、足がよろけてしまった。


「終電ギリギリだし今日はタクシー拾うからここでいいわ。周ちゃんも試合で疲れてるでしょ。」

分かった、と答える前に腕を引っ張られてキスをした。


少し長かったので、濃い煙草のメンソールの味が流れてきた。


「あと私がそういうの好きじゃないって知ってるでしょ。」


「言ってみただけだよ。それじゃあ気を付けて。」


「ええ、おやすみ。」


姿が見えなくなるまで玲子は一度も振り返ることは無かったけど、僕は玄関のドアから頭だけ出して見えなくなるまでその背中を見送った。


オートロックのドアが閉まるまで、カツカツとヒールの音が響いていた。


玄関から部屋を振り返ると、真新しいセミの抜け殻のような、自分以外の人間が放った湿り気と煙草の混ざった匂いが二つのヘヤピンと共に残っていた。


コンロ脇に並べられていた5本の吸いがらは小さなビニール袋に入れてごみ箱に捨てて、ヘヤピンはクローゼットのスーツの内ポケットに隠した。


煙草の吸殻はマーキングに含まれていないところがあの人らしい。


残りのバッテリーが3%になっているiPhoneを起動すると、しおりからのLINE3通溜まっていた。


寝落ちした事にしよう。

時計の針は12時を回ろうとしていた。


流しでコップに水を汲んで、口の中をゆすいで、その全てを吐いた。



-続く-