継体天皇陵を散策しました。
近鉄バスの最寄りの停留所は「太田」もしくは「花園東和苑」です。
今回は太田から西国街道を通って天皇陵の参拝所に向かいます。
今回は太田から西国街道を通って天皇陵の参拝所に向かいます。
参拝所の看板です。


白くシンプルですが、高貴な雰囲気を醸し出す鳥居が鎮座しています。


堀の外から左側前方部を眺めます。
非常に広大で立派な古墳であることが伺えます。

非常に広大で立派な古墳であることが伺えます。

次に藍野病院がある右側の堀から右側後円部を眺めます。
遠方に藍野花園病院の看板が見えますでしょうか?
こちらに近鉄バスの「花園東和苑」停留所が病院に隣接しています。

遠方に藍野花園病院の看板が見えますでしょうか?
こちらに近鉄バスの「花園東和苑」停留所が病院に隣接しています。

名神高速道路を潜ると・・・


近鉄バス「花園東和苑」停留所があります。
画像ではわかりにくいですが、薬局を越えたところに近鉄バスが写っています。
そこがバス停です。先ほどの藍野病院の看板です。

画像ではわかりにくいですが、薬局を越えたところに近鉄バスが写っています。
そこがバス停です。先ほどの藍野病院の看板です。

太田茶臼山古墳の被葬者ですが、
宮内庁では継体天皇陵に治定されています。
しかし考古学では近くにある高槻市の巨大前方後円墳
「今城塚古墳」こそが真の継体天皇陵とされています。
宮内庁では継体天皇陵に治定されています。
しかし考古学では近くにある高槻市の巨大前方後円墳
「今城塚古墳」こそが真の継体天皇陵とされています。
その根拠は?
両古墳から出土される埴輪等を調査し、いつ作られたかを計測すると、
茶臼山が5世紀中旬頃なのに対し、今城塚が6世紀前半であることがわかっている。
古事記・日本書紀では帝は530年前後に三島の藍野御陵に葬られたと記されている。
また延喜式記載の所在地も今城塚に該当することから、今城塚こそが継体陵であるというのが現在の通説です。
茶臼山が5世紀中旬頃なのに対し、今城塚が6世紀前半であることがわかっている。
古事記・日本書紀では帝は530年前後に三島の藍野御陵に葬られたと記されている。
また延喜式記載の所在地も今城塚に該当することから、今城塚こそが継体陵であるというのが現在の通説です。
では、当該古墳の真の被葬者はだれか?
それは今でも謎であり、だからこそ考古学は面白いといえるのかもしれません。
それにしても不思議ですよね。
継体天皇ではないことがほぼ間違いがないとされている茶臼山古墳は、
宮内庁が大事に管理しており、不可侵の領域を作っているのに対し、
今城塚は、陵墓参考地にもならないほど冷遇され、今でも誰でも自由に陵に出入りでき、最近までは堀に民間人の田畑や建物があったのである。
現在では高槻市が市の観光名所の看板にあげるため史跡公園として整備されていますが、神聖な不可侵の王墓の扱いではないですね。
この冷遇ぶりは現在だけでなく、過去もそうであったようだ。
かつては織田信長が三好氏打倒のための摂津侵攻の際に城砦を今城塚古墳につくったとわれている。「今城塚」という名の由来でもあるとのこと。また1596年の伏見地震で大きく地すべりしたともされている。
茶臼山が不可侵の神聖な塚で、今城塚は誰でも自由に入ることができるという立ち位置は昔からの既定であったように思うのです。
宮内庁が大事に管理しており、不可侵の領域を作っているのに対し、
今城塚は、陵墓参考地にもならないほど冷遇され、今でも誰でも自由に陵に出入りでき、最近までは堀に民間人の田畑や建物があったのである。
現在では高槻市が市の観光名所の看板にあげるため史跡公園として整備されていますが、神聖な不可侵の王墓の扱いではないですね。
この冷遇ぶりは現在だけでなく、過去もそうであったようだ。
かつては織田信長が三好氏打倒のための摂津侵攻の際に城砦を今城塚古墳につくったとわれている。「今城塚」という名の由来でもあるとのこと。また1596年の伏見地震で大きく地すべりしたともされている。
茶臼山が不可侵の神聖な塚で、今城塚は誰でも自由に入ることができるという立ち位置は昔からの既定であったように思うのです。
この差はどこからくるのか・・・・?
このことが一番気になるところです。
このことが一番気になるところです。
両古墳の共通点は、両古墳の埴輪が共通の埴輪工場で作られていたということがわかっているのです。
その工場は高槻市上土室にある新池埴輪製作遺跡です。
茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪製作のためにつくられたといってもよい工場という事実は、両古墳の連続性と共通性を物語っています。
その工場は高槻市上土室にある新池埴輪製作遺跡です。
茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪製作のためにつくられたといってもよい工場という事実は、両古墳の連続性と共通性を物語っています。
しかし両古墳の設計思想は異なっていることがわかっています。
太田茶臼山古墳の設計プランは、5世紀前半に造られた羽曳野市の墓山古墳、
5世紀後半に造られた藤井寺市の市野山古墳(允恭天皇陵)に似ているとわれており、規模もほぼ同じだという。
太田茶臼山古墳の設計プランは、5世紀前半に造られた羽曳野市の墓山古墳、
5世紀後半に造られた藤井寺市の市野山古墳(允恭天皇陵)に似ているとわれており、規模もほぼ同じだという。
太田茶臼山古墳と今城塚古墳が三島で造られる前は、前方後円墳の主な造成地は大和川水系の大和や河内であった。
淀川水系の安威川の辺の三島古墳群にも巨大な前方後円墳が2基連続して造られたのである。
そもそも巨大な前方後円墳はなぜ造られたのか?
広瀬和雄教授の『前方後円墳』によると、
亡き首長の亡骸は政治的身体と化し、社会的使命が付与されました。
「カミ」として共同体を守護するのです。
共同体とは大和政権のことです。
権力の強大化によりカミの示威もまた巨大化する。
これが前方後円墳の巨大化を意味するのでしょう。
亡き首長の亡骸は政治的身体と化し、社会的使命が付与されました。
「カミ」として共同体を守護するのです。
共同体とは大和政権のことです。
権力の強大化によりカミの示威もまた巨大化する。
これが前方後円墳の巨大化を意味するのでしょう。
古墳群=権力の示威は、主に瀬戸内海を望む山陽から大和川を経て大和政権中枢の奈良盆地を四方に囲む形で散りばめられています。
これは中国や朝鮮から、もしくは九州などから瀬戸内海と大和川を航行して大和へ向かう外国人・地方豪族に対して巨大なカミの威容を見せつけるための、そしてこれらから守護するための位置関係であるということです。
これは中国や朝鮮から、もしくは九州などから瀬戸内海と大和川を航行して大和へ向かう外国人・地方豪族に対して巨大なカミの威容を見せつけるための、そしてこれらから守護するための位置関係であるということです。
それが、なぜ三島にも強大な古墳が2基を含む三島古墳群があるのでしょうか?
安威川を伝って三島を訪れる外国人や地方豪族がいたのでしょうか?
そこで思い出すのが「太田神社」の存在です。
渡来人と地元豪族が融合した中臣氏。
賀茂氏。
周辺の遺跡の発掘、例えば東奈良遺跡から出土された銅鐸の鋳型。
渡来人からの技術伝授。稲作の跡。
三島古墳群の存在。
三島も外国人の往来があるほど栄えていたという証左でありましょう。
安威川を伝って三島を訪れる外国人や地方豪族がいたのでしょうか?
そこで思い出すのが「太田神社」の存在です。
渡来人と地元豪族が融合した中臣氏。
賀茂氏。
周辺の遺跡の発掘、例えば東奈良遺跡から出土された銅鐸の鋳型。
渡来人からの技術伝授。稲作の跡。
三島古墳群の存在。
三島も外国人の往来があるほど栄えていたという証左でありましょう。
河内や大和に巨大な古墳を造る場所が無くなったというのもあったでしょうが、
あえて三島でも古墳を造る必要性が大和政権にはあったのでしょう。
あえて三島でも古墳を造る必要性が大和政権にはあったのでしょう。
もうひとつ思い出すのが溝咋神社の存在です。
神武天皇の后の五十鈴媛ゆかりの地。
三島を治めていた三島溝咋神の存在です。
神武天皇の后の五十鈴媛ゆかりの地。
三島を治めていた三島溝咋神の存在です。
大和政権にとって三島の地が重要な場所であり、
カミの化身である前方後円墳により守護されなければならない地域であったということでしょう。
カミの化身である前方後円墳により守護されなければならない地域であったということでしょう。
古墳には墓誌がないため匿名性が特徴といえます。
これが大王陵の被葬者の推定を困難なものとしています。
なぜあえて匿名性を重んじるのか?
色々と太古の都に思いを馳せるのも楽しいもんですね。
これが大王陵の被葬者の推定を困難なものとしています。
なぜあえて匿名性を重んじるのか?
色々と太古の都に思いを馳せるのも楽しいもんですね。