成果・効果・科学・思想(その2) | ほたるいかの書きつけ

成果・効果・科学・思想(その2)

 前のエントリ をふまえた上で、poohさんのところでのメカさんのコメント への御返事を書きたいと思いますが、やたら長いので(失礼)、まとめます。前のエントリにメカさんからのコメントがついていますが、とりあえずこのエントリは、そのコメントを読む前にまとめていますことをご承知おきください。

 一度はメカさんのコメントに対して逐次的にレスをつけたのですが、ただでさえ長いメカさんのコメント以上にレスをつけることになってしまい(笑)、しかし重複する内容がそこかしこに出てきてしまったので、バッサリ削ることにしました。私だって人の子ですから(^^)、自分の書いた物には愛着も湧きますし辛かったのですが、他人が読めないエントリにしても意味がないので、泣く泣く削除しました。まあこれはどうでもいいことなのですが。

 さて、メカさんの主張は、以下のようにまとめられるでしょうか。
(1) ニセ科学の科学の部分を批判することに意味(効果)はない。
(2) 思想の部分を批判しなければならない。
(3) 科学の名で根拠づけていることを批判しておいて、なぜ宗教を批判しないのか。
(4) ニセ科学を検閲のようなことまでして排除するのはけしからん。
(5) メカさんが「事実」と言うものは、客観的事実ではなくてメカさんが「こうだろう」と思った推測。
(6) 「社会のため」「正義のため」と思い込んでやっているのは危険だ。

順番に考えていきます。

【(1)について】

まず前エントリでも書きましたが、「効果」と言った場合に、なにをもって「効果」あるいは「成果」とするかということをある程度は見極めておく必要があります。それは、「受容者」にもスペクトルがあるからです。メカさんは「信者」という言葉をお使いになりますが、長い文章を眺めていると、どうもかなりコアなビリーバーと俗に呼ばれるような人々を想定しておられるようです。そのような人々に対して、この界隈でニセ科学を批判している人々のやり方が、直接的になんらかの効果を発揮するとは思いません。たとえばあちこちで告発して江本の活動を周辺化していくことぐらいでしょうか。それ自体は科学の営みではなく、ある意味政治ですね。社会における勢力争いです。この社会において、ちゃんとした科学がそれなりの意義を保ち続けるのか、オカルトと同列に扱われるのか、の。

 しかし、大方の批判している人々の目的はそこにはないでしょう。ABO FANさんやSSFSさんみたいな方々と「対話」している私だって、彼らを説得できるとは毛頭思っていません。対話をする目的は別にあります。
 私もそうですが、主要な目的は、ゆるく、なんとなく信じてしまった人々に気付いてもらうこと、またそもそもニセ科学などにはまらないで済むようになること、です。また教育やメディア(特にテレビ)のあり方とも深く関わるでしょう。血液型性格判断を垂れ流す番組に対して「BPOの勧告を守れ」と言うのはそれとも関係します(メカさんはこれも検閲とか排除だとか見做すのでしょうか?)。

 目的をそう設定した場合、ニセ科学がどう科学を騙っているかを示すこと、どう科学的に間違っているかを示すことは、なんとなく信じてしまっている人々に対して一旦冷静に考えてもらうきっかけを作ることになります。前エントリで示した図の受容者の上半分に位置する人々にとっては、これはとても効くという感触があります。もちろんその効果を客観的に検証したわけではありませんが、私の個人的な経験としてはそうです。それを一般化したいのではなく、私はこうだった、あなたは?という経験交流を通じて、より良い方法を探っていきたいのですね。
 そして、さらに期待することは、一旦信じたことを(きっかけは外部だとしても)自ら整理して信じなくなるという経験をすることで、ニセ科学に対する耐性を構築できるのではないか、ということです。もちろん、どう指摘したら耐性を作りやすいかは研究する価値があります。直接的には心理学の課題だろうと思いますし、血液型性格判断を中心に、それなりに豊富な経験が蓄積されています。このあたりは、『不思議現象 なぜ信じるのか こころの科学入門』(菊池聡、谷口高士、宮元博章編著)に詳しいです。メカさんの問題意識ととても良く噛み合う本だと思いますので、御一読を強く進めます。きっと、面白く読めると思います。「水伝」などに対しても応用していけるといいのですが、それはこれからの課題ですね。

 「土俵」問題ですが、まずニセ科学提唱者の土俵とは何か、なんですが、ニセ科学と我々が呼んでいるものは、その一部に客観的に検証可能なものが含まれていますから、科学の土俵の上だって彼らの土俵の一部です。それから科学の部分を強調するのは、まさに戦いやすいからですよ(少なくとも私の場合は)。客観的に検証できるんですから。間違いだとか間違いじゃないとか容易に言えないような価値観に属するようなことについての議論は重要なんですが、問題があるものに対してどう切り込むかは戦略をたてて臨むべきです。もちろん、どう切り込むかは個人の自由なので、メカさんが思想に切り込んでいただけるなら、それは見てみたいと思います。参考にできるところはしたいですから。

 私なりにまとめると、(a)コアなビリーバーはほぼ洗脳に近い状態であると思われ、別種の対応が必要だろう、(b)個別のニセ科学について、なんとなく信じている層を引き離すのには科学の部分を批判することに意味がありそうである、(c)信念を自ら否定する経験によって、ニセ科学に頼らなくて済むようになることを期待する、(d)cの期待があるため、bを実行することは長期的に見ても受容者の「思想」(先取りですがメカさんが思想と言っているものはこれを指すことが多いようなので)を突き崩すことに貢献できる、となりましょうか。たぶん、c, d の部分がメカさんと私とで意見の対立があるところだと思います。


【(2)について】

実はメカさんは「思想」という言葉に幾つもの異なる意味を持たせているためメカさんの言いたいことを読み取るのが難しいのですが、多くの場合、受容者が受容してしまう心理を「思想」と呼んでいるようなので、ここではそれを指すとします。とはいえ、そのまま「思想」と呼ぶと色々と混乱するので、以下では「受容者の心理」と言うことにします。その方がより限定的で、混乱も少ないでしょう。

 受容者の心理を分析することは極めて重要です。それはまったくその通り。そして、人々がついニセ科学を信じてしまうのも、もはや人間の「性」と言えるでしょう。それは人間にとってごく自然なことなのだと思います。科学のほうがずっと特殊です。特殊な方法を人類が発見し、共通の知として蓄積していくことで、ここまで発展してきたのですね。
 こういったことは、それこそ pooh さんがしばしば考察されていることです。ホメオパシーに関する新しいエントリ でも興味深い考察がなされていますので、読まれてみてはいかがでしょう。ホメオパシーはまさに受容者がなぜ受容してしまうのかが大きな関心となっています。kikulogの関連エントリでも活発に議論が行われていますね。
 きくちさん(菊池誠氏)などは、しばしば「折り合いをつける」と言ったりします。まあ結論としてはそういうことになるんでしょうが、じゃあどうやって折り合いをつけりゃいいんだ、ってのが問題なわけで、そこはもっと考える必要があります。

 さて、ではメカさんの「思想に切り込む」というのは、具体的にはどういうイメージをされているのでしょう?実は「切り込む」というのもよくわからないのですよね。受容者に対して、信じなくなるための対処のことを言っているのか、それとも対受容者ということではなくて、受容者の心理をもっと分析しろ、と言っているのか。両方かもしれませんし、もっと他の意味も込めているのかもしれませんが、ちょっと曖昧すぎて、どうしたらいいのやら、というところです。

 もう一つ、メカさんが「思想」に込めているっぽいことは、科学とニセ科学を対等のものとする、ということです。これは、一つには、前の図で言うところの受容者の下半分について当てはまります。科学的な間違いを指摘しても、科学自体を相対化してしまって、どっちもどっちという対応をとりつつ、心はしっかりニセ科学の方に向いている、そういう状態をどうするか、と。これは極端な相対主義にもつながる思想でもあります。
 これは論理的には哲学や科学論の問題になってしまうのですが、学問的に深めることも重要ですが、実践的にはそういう心性に対してどのように対処すべきかが重要でしょう。心理学的にはおそらく「サブタイピング」という概念が重要になると思われます。これは血液型性格判断を信じる心を分析する際にしばしば登場します。批判されてもそれを例外扱いすることで、自分が信じている本体に影響がないように自分の心を整理してしまうということです。このあたりは、個別のニセ科学に即してもっと分析する必要があります。
 もう一つは、「科学」と「神」の位置関係です。メカさんは、しきりに科学を騙っていることをもって批判しているのに、なぜ神の名で行われる宗教は批判しないのだ、とおっしゃいます。これも、科学の意義を相対化することから出てくるものです。これについては次の3で。


【(3) について】

 まず、なぜニセ科学が批判されているのかということろから考えないといけません。水伝にしてもなんにしても、科学的でないから(=非科学だから)批判しているというわけではありません。科学的知見と矛盾することが、いかにも科学で証明されたかのように言うから批判しているんですよ(ちなみにマイナスイオンなどの場合は、科学的に決着のついていないことを、さも決着がついたかのように言うところが批判のポイントです)。

 私は無神論者だからいくらでも宗教批判したって構わないんですが、科学の名で批判するものとは違います。キリスト教に関係するものだったら、たとえば 創造説なんてのは強い批判にさらされてますよ。キリスト教全体が聖書の記述を絶対のものとみなすのであれば、キリスト教自体の批判へと向かうでしょうが、 実際はそうではないので、キリスト教への批判ではなく、創造説への批判、となっているわけですが。
 それから、メカさんのお尋ねでもありますが、害がないからってのは(私個人としては)ありますね。キリスト教を名乗って社会問題を引き起こせば、当然その団体は(キリスト教自体ではなく)批判されるでしょう。
 むしろ私がお聞きしたいのは、どうして「キリスト教も水伝も同じように有害」と言ってしまえるのか、です。どう同じように有害なのでしょう?

 宗教が抱える思想自体についても、私自身は批判的な部分はあります。それはもちろん宗教との付き合い方、ということになるので、まあ難しいところもあるのですが、なんにせよ依存してしまうのは良くないし、「神」にすべてを還元してしまうのも良くない。物事の原因を追求することに対し、ブレーキをかけ思考停止に貢献してきた部分はやはりあると思うわけです。個人の人生においても、社会においても。それこそ「宗教は悩めるもののアヘンである」というのは、宗教の持つ一面を指摘するものであろうと思います。もちろんそういった面を自覚してうまく付き合っている人も多いでしょうし、そもそも宗教に限らず、なにかに精神的に頼るのは人間どうやっても避けられませんから(頼ったもののうち検証不可能なものを「神」や「霊」などと呼ぶ、ぐらいの方がいいのかもしれませんが)、これも難しい問題であろうと思います。
 ついでに言えば、「解放の神学」みたいなキリスト教もあるわけで(今日の中南米の状況も、それが底流にあるのでは-70年代だけではなく-と思っているのですが、どうでしょうか)、逆にブッシュのような福音派もキリスト教なわけで、まあ「宗教」と十把一絡げにしても意味がないことを端的に示していると思います。

 いずれにしても、ポイントは「客観的検証」が重要であるか否か、です。まず信じよ、というのは、私はそれに与するものではありませんが、それを否定するつもりもありません。それは生き方の問題ですから、それこそ「カレーパンかヤキソバパンか」という問題と同じなわけです(まあ重大さは全然違いますが)。「好み」でしょう。

 もう一つついでに言えば、科学の研究だって、場合によっちゃ批判しますよ私は。低コストで大量殺人を可能にする兵器の開発だとかね。核兵器の開発研究だってね。科学者の社会的責任をどう考えるのか、ってことになるんですが。話が拡散するのでこれだけにしておきますが、ニセ科学と宗教の類似点と相違点を考えるにあたって、科学内部にも研究自体に対する批判があるのだということは押えておきたいところです。


【(4) について】

 これがサッパリわからない。なぜ排除しているように見えるのか?
 まず大前提は、我々も彼ら(ニセ科学の提唱者)も、言論出版の自由を保障されているということです。保障されているし、それを侵害してはならない。
 そして、言論の自由があるということは、批判する自由もあるということです。言論の中には批判も含まれますから。ですから、公になされた出版や発言に対して、権力から離れたところで批判するのは完全に自由でしょう。たとえば、明らかに科学的に間違ったことに対して、ほとんどの科学者が「それは間違いだ」「そんな間違いを学校で教えるな」と言ったとします。それは言論弾圧ですか?違うでしょう。
 個々の人間にはもちろん間違える自由だってあります。でも、それを公にするのであれば、批判にさらされるのは仕方ないでしょう。公になった状態で放置されれば、あちこちで問題が引き起こされかねないのですから。それを排除だの検閲だの言ってしまっては、批判なんてできませんよ。というか、メカさんの発言自体が、ニセ科学批判に対する言論弾圧である、ということも言えてしまうわけですよ(もちろん私はまったくそうは思っていませんが)。

 ニセ科学をテレビ番組で放映することに対してテレビ局に抗議することだって、民主主義社会における正当な行いですよ(電話やファックス攻勢などはもちろん程度の問題はありますが)。これはもちろんニセ科学の側がテレビ局や新聞社に対して抗議する権利をも認めた上で言っています。テレビ局は、それに対して反論する権利がある。そして、ニセ科学に対立する側が、「そんな抗議はおかしい」と批判する権利もあるわけです(逆もまた同様)。
 むしろ、思想弾圧も場合によっては許されるとも読めるようなメカさんの発想の方が、私には恐しいです。


【(5) について】

 これはまあそうなのか、と(ちょっと脱力しつつですが)了解しました。
 あちこちこの界隈のブログ等を読まれたのであれば大体見えてきたのではないかと思いますが、おそらくメカさんが思っているよりは、様々な考察がなされています。もちろん、私としては、そこにメカさんがなにがしかの有益な知見を加えてほしいと思っています。


【(6) について】

 それの何が悪いのかがわかりません。もちろん、謙虚でないのであれば、それは問題を引き起こす可能性が多分にあります。でも、ニセ科学を批判している人々は、たいてい自分が間違っている可能性を考慮した上で発言しているのではないでしょうかね?2chみたいなとこだとどうか知りませんが。

 環境問題との比較をメカさんはされました。それは実は重要で、実際困っているのですよね。EM関連の記事を見てもらえるとわかりますが、環境問題(水伝でもそうですが)に絡むニセ科学において常につきまというのが「善意」の存在です。「善意でやっているのだからいいじゃないか」というやつですね。以前、『環境問題 善意の落とし穴』という本を紹介するエントリ を書いたこともあります。

 これは常に自戒しておかないといけません。ニセ科学問題というのは社会問題でもあるわけで、社会との関わりを抜きには語れませんから、どうしても「善意」というのは絡んできます。知らず知らずのうちにそれを免罪符にしている可能性は誰にもあるわけで、気をつけないといけないですね。

 もう一つ、ニセ科学を批判する理由として「自分のため」と「社会のため」は相反するものではありませんよね。自分がやりたいからやってるという大前提があるわけで(金ももらわず自分の時間を使ってやってるわけですから)、純粋に社会のためなわけじゃないことは自明でしょう。


【その他の点について】

>  ちなみに血液型性格判断については、どういうレクチャーをやったらどれくらい受講者の認識が変わるか、またそれが維持されるかどうか、といった効果について

その「維持」という部分が興味深いんだけど、どういう検査をしたのかな。たとえば受講直後には血液型と性格との関連に否定的な認識をもった人でも、信じている友人がそばにいるかいないかで、その認識を保ち続けられるかは大きく変わると思うんだよね。

で、そもそも疑似科学を信じる人は周囲にもそういう人たちが多いはずで、再び疑似科学にはまる率は非常に高いと思うんだけどね。まあ何にせよそういう研究は今後もやるべきではある。
そうですね。その研究については、いずれ改めて紹介エントリを作りたいと思います。このブログでは血液型性格判断についての論文を紹介するシリーズをやってるんですが(左のサイドバーに載せています)、その一環でやってみたいと思います。私も深めてみたいし。ちょっと先になるとは思いますが…。
 ちょっとだけ言うと、ある女子大で、100人ほどの授業で血液型性格判断を批判する講義を行った。講義前は信じている人が7割だったのが、講義直後は3割まで減り、3ヶ月後も維持された、というものです。3割の人は信念を捨てなかったし、また同じ授業に出席していたわけで、信じている友人はそばにいると考えてもおかしくありません(もちろん、信じている者・信じていない者同士で友人グループを作っていた可能性もありますが)。それから、娯楽としての血液型性格判断を容認することが自身の血液型ステレオタイプを強化する方向づけを与えることや、ステレオタイプが強い者ほど受講しても信念が変わらなかった、といったことが報告されています。
 ただし1992年の論文(『現代のエスプリ』No.324, p.146)なので、その後の蓄積もきっとあるだろうとは思うのですが、そのあたりはわかりません。

 もう一つ、おそらく重要な点。
まあ簡単にいえば科学が宗教的なものをあまりにも排除してしまったからだろうね。科学が非科学的なものと一緒に宗教が 担っていた人の心の支えという役割まで否定してしまった。しかたないから今度は科学を宿主にしてそういうものが芽生えたわけだ。ある意味すごい生存競争だ よね。天敵に寄生して生き残りを図ろうとしてるんだから。
そうですね。まあ指摘されればウソがわかってしまうような主張を内包せざるを得ない宿命を負ってしまったわけですから。
 ただ、科学が宗教的なものを排除した、というのは一面的かな、と思います。実際に宗教的なものが科学に入り込んでくると困るわけですが(個別の科学者の 内的動機は別にして)、一方で、信じようが信じまいが、誰もが同じ条件で同じことをやったら同じ結果になることの集大成が科学であるとも言えるわけです (もちろん、これも科学の一面を述べているに過ぎませんが)。宗教的なものに依存せず、客観的に検証可能なものに頼るという方針で進んだら、恐しいまでに 発展してしまったのが現代の科学(と技術)、そして我々は日々その恩恵を受けている-こうしてブログを書くことでさえ(笑)。
 しかしその道筋が一旦忘れ去られ、科学の恩恵を「あるもの」としてしか受け止められなくなると、宗教的なものが感じられないことに寂しさのようなものを感じる人々はきっと多いのでしょうね。本末転倒ですが、そこにニセ科学がつけ入る隙があるのでしょう。

***

というわけで、いかがでしょうか。たぶん一通りメカさんの疑問には答えたと思うのですが、答えていない問があったら言ってください。

 メカさんの問題意識はわかるのですよね。わかるのですが、一部は既に多くの人が考えているし、また一部は難しくて手に負えなかったり、手薄な分野であったり、みなさん忙しくて手が回らなかったりで十分に深められていないのです。
 だからこそ、皮肉でもなんでもなくて、メカさんなりのやり方というものを具体的に見せてほしいのですよね。実践的に批判してくれれば一番いいですけど、そこまでいかなくても、例えば水伝だったら具体的にこの点をこのように批判すべきである、とか。それが一番参考になるので。


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