成果・効果・科学・思想(その1)
【はじめにおことわり】途中まで書いて下書きを保存しようとしたら、半角40000字を越えてて保存できない、などと抜かしよった。なので、エントリを二つにわけます。それはつまり、こういうことです。「長いよ」。すみませんすみません。メカさんのコメントへの返事は、次のエントリです。
【おことわりその2】メカさんへの返事、ざっと書いたんですが、これが長いのなんの。(^^;; ちょっと長過ぎなので、重複する部分を削り、もう少しコンパクトにしたいと思います。ので、とりあえずこのエントリだけ先に公開します。
先日、poohさんのエントリ がメカさん(メカAGさん)の記事をとりあげ、そこにメカさん御本人がコメントを寄せていました。私はその展開にちょっと興味を持ち、反論とかそういうことではなく、議論を深めようという立場から、少しばかりコメントをいたしました。
だいぶ長くなりますが、まずは私がコメントした文章を紹介します。ここまでの経緯は、poohさんの当該エントリのコメント欄をお読みください(そこまでは、そう長くはありません)。
さて、上のようなコメントをした背景には、以下のような、私なりのニセ科学問題の分析があります。一般論はたいていの場合無力なので、具体例で話を進めましょう。
下の図は、「水からの伝言」(以下「水伝」)をとりまく構造を、ある側面から切り取ったものです。もちろん私なりのまとめであり、異論のある方もいるでしょう。特に一番下の部分は違和感を覚える人も少なくないかもしれません。メカさんのおっしゃる「思想」は、おそらくこの図の左側「受容者」に関わるものだとは思いますが、まずは一般的な話をしたいと思います。
ここでは、まず大きく左右二つに分類しています。右側が江本勝をはじめとする「提唱者」(コアなビリーバーも含むでしょう)、左側がそれを信じる「受容者」です。受容者の上のほうが、水伝を授業で使っちゃった教師の典型でしょう。
さて、まず右側。こちらは江本らの主張がそもそもどういう構造をしているか、です。これについては多くの分析があり、特に hietaro さんの「『水からの伝言』の2つの側面」 に端的にまとめられています。ここでは、hietaroさん言うところの「現象篇」を「根拠」、「解釈篇」を「結論」「応用」と言っていますが、まあそれは視点をどこに置くかという話なので、違うことを主張するために違う言葉を使っているわけではないです(通常の科学だって、現象が根拠ですしね)。ここではさらに、その「説明原理」として「理論」-つまり、彼らが言うところの「波動」(もちろん物理学で出てくる波動とはなんの関係もない)も載せています。
なお誤解のないように言っておくと、「根拠」から上下に伸びる矢印の向きは、彼らの動機の順番とは関係ありません。あくまでも、彼らの議論の展開を元にしているだけです。彼らの発想としては、「応用」側の結論が先にあり、一方江本らが持ち込んだ波動測定器を使いたいという思惑がそれに結びついて、「根拠」「応用」のセットが出来たのでしょう。
この「理論」(「波動」)は一般化されており、「水伝」だけではなく、多くのニセ科学に持ち込まれています。「EM」の説明原理も「波動」です。ホメオパシーも、原子論が確立したあとはレメディの中に分子が一つも残っていないということがわかっちゃいましたから(ということだと思いますが)、「波動」を持ち出して効能を説明しようとしますね。そして、ニセ科学というよりもっとストレートにオカルトなものにも「波動」は登場します。さらにさらに、「波動」で生き方を決める発想まであるわけですね。
提唱者の部分に限って見ると、科学っぽい「実験」の部分、科学っぽい「理論」の部分、もろに「道徳」の部分、といくつかのパーツに分けられます。「道徳」の部分をもって「思想」と言ってもいいのかもしれません。また、「理論」の部分も科学的な言辞は使っていますが(量子力学など)、まあ客観的に見れば「思想」ということになるだろうと思います。
次に左側。こちらは受容する側の(ごく簡単な)分析です。分析と言っても、受容者に典型的な例をいくつか述べているに過ぎませんが、まあこんな感じだろう、と(コアなビリーバーは除きます)。彼らにとっての心の支えは、やはり客観的に検証されたと思い込める「根拠」の部分(つまり「実験」)でしょう。それがあるから、「道徳」的な結論を活かして授業に使おうなんて思っちゃうわけです。このあたりの人々(つまりこの図で言うところの受容者の上半分に位置する人々)は、「根拠」を崩せばたいがい「え?そうだったの?」となって、「水伝」からは離れていきます。少なくとも、私のそう多くはないが少なくもない経験ではそうです。心の整理をつけるのに時間がかかる人もいますが。もちろん統計データを取っているわけではありませんから、それをそのまま信じろと言うつもりは毛頭ありませんが、経験交流は大事だと思っていますので、まあそういうヤツがおる、ぐらいに思って聞いてもらえればいいかなと思います。
問題は下半分、つまり「波動」側に心魅かれてしまっている人々でしょう。ここはばっちりニューエイジ系の思想と重なります。軸足がこちらに来てしまうと、「根拠」の間違いを言ってもなかなか受け入れなくなります。どう受け入れないかは様々でしょう。単に聞く耳を持たなくなる場合もあるでしょうし、悪しき相対主義を持ち込んで、ちゃんとした実験結果を認めない場合もあるでしょう。もっと中途半端に「科学でもわかっていないことはいっぱいある」で思考停止してしまう場合も多いでしょう。
ここから先はニセ科学を批判する人々の間でもコンセンサスがあるわけではないと思いますが、ここは私のブログですので私の主張を書いておきます。このような「思想」には問題点が大変多く含まれています。その第一歩は、「百匹目の猿」に代表される思想でしょう。簡単に言えば、みんなで祈れば願いは実現する、ってやつです。世界平和も願えば実現する、と。これは色々な意味で問題ですが、平和への地道な努力をまったく見ないという点で有害ですらあります。
「みんなで」というのが一つのキーワードですね。ここにゆるやかな連帯を感じ、心地良く感ずる人も多いと思います。しかし、これが曲者。「個」を相対化し、しかも相対化したままにする。独立した「個」の連帯ではなく、相対化されたままの「個」の連帯は、融合した「全体」に向かわざるを得ないと思います。そうなった時、自分が何かうまくいかないことがある、失敗してしまった、つらい、ということに直面したら、どうなるでしょうか。祈りが足りない、となりますね。「祈り」じゃなくてもいいんですが、要するに、例えば生活がつらいのは自分が怠けてる場合もあるだろうけど派遣切りだのなんだの自分ではどうしょうもない社会的な問題に起因するものだっていくらでもあるわけです。そこを捨象してしまい、すべて「自分」に還元していまう。「連帯」の幻想は、すべてを「自己責任」へと転化させる危険を孕んでいます。これは「空気を読む」ということに(私などから見たら)異常なまでにこだわる最近の風潮と似たようなものなのかもしれませんね。
ついでに余談ですが、最近都市部の大学では「トイレで食事をしないでください」と張り紙がしてあるとか。これは、学食で一人で食べているところを友人に見られたくないからだそうなんですが、別に一人で食べてたっていいじゃんねえ。トイレで食べるほどに空気読まないかんのかねえ。息苦しいだろうねえ。
このような「思想」は、まさに大衆支配のおそるべきイデオロギーでしょう。実際、そうやって社員に「生きがい」を持たせ、どんな長時間の過酷な労働も喜びに感じさせてしまうという社員教育をやっている企業もあると聞きます(ちょっと古いけど『カルト資本主義』でだいぶ取り上げられていますね。稲盛和夫の「アメーバ経営」なんてまさにその例らしいのですが、まだチェックできていません)。
別の面から言うと、本当は、受容者が受容してしまう心理をもっと分析しないといけません。そこはニセ科学の「蔓延問題」への対策としては極めて重要でしょう。心理学者の皆様におかれましては、ぜひ、そこを取り組んでいただければと思います。血液型性格判断対策の蓄積が活かせる場ではないでしょうか。というのが、とりあえずのメカさんへの噛み合った形での返答、ということになるでしょうか。
というわけで、長々と書いてきましたが、ここでようやくメカさんへの質問となります。メカさん言うところの「思想」とは、この図でいうとどのあたりをイメージされているのでしょうか?もちろん分析は人によって違うし、メカさんとしては現状は大雑把な枠組みを提出する段階のようですから、「ここ」と言っていただかなくてもいいのですが、大体どのあたりをイメージしているのかを言っていただくと、わかりやすくなると思います。受容者が受容する心理、というあたりでいいのでしょうか?(このあたりは次のエントリで)
ちなみに今まで(このエントリだけではなくて)「水伝」の「思想」と言った場合何を指すかというと、文脈によって異なります。「道徳」の部分を指す場合もあるだろうし、「波動」の部分かもしれない。あるいは「水伝」を受け容れる思想のことかもしれない。要するに「実験」の部分以外はしばしば「思想」と呼ばれることがあるわけで、私としては「思想」が何を指すのかがよくわからないのですよね。
さて、最後にもう一つ。オカルトや社会的に問題のある新興宗教などへの批判は昔からありましたよね。私はそれに一定の効果(あるいは意義と言ってもいいのですが)はあったと思っているのですが、そうは言ってもその類のものはなくならないですよね。江原啓之の人気、各種占い師の人気、いまでも色々ありますよね。では、どうしてなくならないのでしょう?
ニセ科学批判が(ネット上のごく一部とはいえ)それなりに注目され、まさにメカさんのような方がなんらかのコメントをしていくという状況は、それだけ今までの「思想」そのものに切り込むやり方に比べて斬新な面があった、ということなのではないでしょうか。ニセ科学批判が直接対峙できるものは限られます。「根拠」が客観的に検証できるもの、つまり「科学」の土俵で勝負できるもの、だけなんですよね。しかし、多くの(歴史の浅い)オカルトは、うっかり客観的に検証できる部分を内包してしまっています。だったら、そこを叩くというのは、戦略としてはもっとも(一番かどうかは別にして)有効ではないでしょうか。
私が自分が実際に人と話した事例を挙げたのは、効果があるということを感じながらやっていることを紹介するためでした。しかし、もちろんまだまだうまく行かない部分も多々あります。
たとえば最近も、「たしかに問題はいっぱいあるけど、世の中から排除するのは良くないよね」と心配そうに言われたことがあります。この人は、ニセ科学は問題だと思っている人なんです。私は排除するつもりなんて毛頭なくて、むしろなんとかせめて周辺化できないかと思っているだけなんですが、しかしメカさんが書かれた文章にも同様のことはあったし、ネット上でも似たような言説は時折見かけます。どうしてそういう意見が出てくるのかは真剣に知りたいんですよね。
もちろん、「思想」に直接切り込み、それが効果を挙げるなら、そうしたいんです。ハッキリ言って、「水伝」そのものはそう大きな問題ではない。それよりもむしろ、上の図での一番下のラインを私は最も危惧しているのです(教育に持ち込まれれば影響は長年続くだけに問題は問題なんですが)。しかし、どう切り込んだらいいのかわからない。そして、おそらく、思想への問題提起は昔からされている。そしてそして、私の得意分野はそちらというよりは(自然)科学の部分なのであって、だったら自分の得意なことを活かすのが合理的だと思うわけです。一人でなんでもやらなきゃいけないわけじゃないのだから、得意なこと・問題だと思っていることをそれぞれが取り組むことによって、いわば集合知として進んでいけば良い。
というわけで、メカさんには思想に直接切り込むことにぜひ取り組んでほしいし、どう切り込めば効果的なのかを教えてほしいのですよね。
(その2に続く)
【おことわりその2】メカさんへの返事、ざっと書いたんですが、これが長いのなんの。(^^;; ちょっと長過ぎなので、重複する部分を削り、もう少しコンパクトにしたいと思います。ので、とりあえずこのエントリだけ先に公開します。
先日、poohさんのエントリ がメカさん(メカAGさん)の記事をとりあげ、そこにメカさん御本人がコメントを寄せていました。私はその展開にちょっと興味を持ち、反論とかそういうことではなく、議論を深めようという立場から、少しばかりコメントをいたしました。
メカさんの議論は、いわゆる「ニセ(疑似)科学批判批判」と呼ばれるものの典型を含むように見えましたが、一方で、ありがちな「批判批判」にとどまらない展開も期待できるのではないか、と思っておりました。メカさんのおっしゃることは、ざっくりまとめると、ニセ科学批判者がやってきたことは無意味(あるいは間違い)であり、思想に切り込まなければならない、となるでしょう(まとめすぎかな)。
だいぶ長くなりますが、まずは私がコメントした文章を紹介します。ここまでの経緯は、poohさんの当該エントリのコメント欄をお読みください(そこまでは、そう長くはありません)。
こんばんは。最初に「別の角度から」と断っている通り、このコメントは、それまでの流れとは違う視点を持ち込むものでした。メカさんの問題意識に正面からぶつかったわけではありません。もちろん、それが有益な議論につながると思ったからなんですが。それから、私自身が最近色々と感ずるところがあって、メカさんとの議論を通じて何か見えるものがあるのではないか、と期待したからでもあります。
別の角度から一言だけコメントさせてください。
狭い範囲とはいえそれなりに大勢の人々と顔を合わせて話をしてきた経験をふまえて言えば、信じていた人の大半は、事実関係での間違いを指摘されれば信じなくなります。たとえば「水伝」の場合なら、中谷ダイアグラムを引き合いに出して、言葉や意識や「波動」の介在する余地はない、ということを説明すれば、今まで信じてきたことに大してショックを受けたり動揺したりすることもありますが、まず信じなくなります。
逆に、事実関係抜きに道徳の問題の話から入ると、なかなか納得はされない場合が多いようです。
事実関係の指摘で納得されず、さらに深みにはまる人もネットを見ているといらっしゃるようですが、ネット上ではなくリアルでの実感で言えば、そういう人はごく少数です。そういう人々はネット上ではエキセントリックな主張をされるので目立ちますが。
血液型性格判断のように、日常的に誤った情報にさらされている問題の場合はなかなか納得しきられない場合も多いのですが、それでもある程度は懐疑的に見るようにはなってくれるようです。
ネット上での議論の場合は、信奉者が自分の信念を強化するようなサイトのみを見てまわるという行動がありますのでまた難しいのだと思いますが、一応、両手両足の指では足りないくらいの人々に「今までは信じてたんですが…」と言ってもらった経験をふまえると、客観的事実を把握してもらうのがもっとも効率的な道であるように思います。
> いや、やっぱり「どういんちきなのか」を示すのは必要で。そこは起点になるわけだし。
本当にそうだと思います。そして、信じちゃってる多くの人は、その起点のところで引っかかってるのだと思います。
by FSM (2009-08-24 01:51)
さて、上のようなコメントをした背景には、以下のような、私なりのニセ科学問題の分析があります。一般論はたいていの場合無力なので、具体例で話を進めましょう。
下の図は、「水からの伝言」(以下「水伝」)をとりまく構造を、ある側面から切り取ったものです。もちろん私なりのまとめであり、異論のある方もいるでしょう。特に一番下の部分は違和感を覚える人も少なくないかもしれません。メカさんのおっしゃる「思想」は、おそらくこの図の左側「受容者」に関わるものだとは思いますが、まずは一般的な話をしたいと思います。
ここでは、まず大きく左右二つに分類しています。右側が江本勝をはじめとする「提唱者」(コアなビリーバーも含むでしょう)、左側がそれを信じる「受容者」です。受容者の上のほうが、水伝を授業で使っちゃった教師の典型でしょう。
さて、まず右側。こちらは江本らの主張がそもそもどういう構造をしているか、です。これについては多くの分析があり、特に hietaro さんの「『水からの伝言』の2つの側面」 に端的にまとめられています。ここでは、hietaroさん言うところの「現象篇」を「根拠」、「解釈篇」を「結論」「応用」と言っていますが、まあそれは視点をどこに置くかという話なので、違うことを主張するために違う言葉を使っているわけではないです(通常の科学だって、現象が根拠ですしね)。ここではさらに、その「説明原理」として「理論」-つまり、彼らが言うところの「波動」(もちろん物理学で出てくる波動とはなんの関係もない)も載せています。
なお誤解のないように言っておくと、「根拠」から上下に伸びる矢印の向きは、彼らの動機の順番とは関係ありません。あくまでも、彼らの議論の展開を元にしているだけです。彼らの発想としては、「応用」側の結論が先にあり、一方江本らが持ち込んだ波動測定器を使いたいという思惑がそれに結びついて、「根拠」「応用」のセットが出来たのでしょう。
この「理論」(「波動」)は一般化されており、「水伝」だけではなく、多くのニセ科学に持ち込まれています。「EM」の説明原理も「波動」です。ホメオパシーも、原子論が確立したあとはレメディの中に分子が一つも残っていないということがわかっちゃいましたから(ということだと思いますが)、「波動」を持ち出して効能を説明しようとしますね。そして、ニセ科学というよりもっとストレートにオカルトなものにも「波動」は登場します。さらにさらに、「波動」で生き方を決める発想まであるわけですね。
提唱者の部分に限って見ると、科学っぽい「実験」の部分、科学っぽい「理論」の部分、もろに「道徳」の部分、といくつかのパーツに分けられます。「道徳」の部分をもって「思想」と言ってもいいのかもしれません。また、「理論」の部分も科学的な言辞は使っていますが(量子力学など)、まあ客観的に見れば「思想」ということになるだろうと思います。
次に左側。こちらは受容する側の(ごく簡単な)分析です。分析と言っても、受容者に典型的な例をいくつか述べているに過ぎませんが、まあこんな感じだろう、と(コアなビリーバーは除きます)。彼らにとっての心の支えは、やはり客観的に検証されたと思い込める「根拠」の部分(つまり「実験」)でしょう。それがあるから、「道徳」的な結論を活かして授業に使おうなんて思っちゃうわけです。このあたりの人々(つまりこの図で言うところの受容者の上半分に位置する人々)は、「根拠」を崩せばたいがい「え?そうだったの?」となって、「水伝」からは離れていきます。少なくとも、私のそう多くはないが少なくもない経験ではそうです。心の整理をつけるのに時間がかかる人もいますが。もちろん統計データを取っているわけではありませんから、それをそのまま信じろと言うつもりは毛頭ありませんが、経験交流は大事だと思っていますので、まあそういうヤツがおる、ぐらいに思って聞いてもらえればいいかなと思います。
問題は下半分、つまり「波動」側に心魅かれてしまっている人々でしょう。ここはばっちりニューエイジ系の思想と重なります。軸足がこちらに来てしまうと、「根拠」の間違いを言ってもなかなか受け入れなくなります。どう受け入れないかは様々でしょう。単に聞く耳を持たなくなる場合もあるでしょうし、悪しき相対主義を持ち込んで、ちゃんとした実験結果を認めない場合もあるでしょう。もっと中途半端に「科学でもわかっていないことはいっぱいある」で思考停止してしまう場合も多いでしょう。
ここから先はニセ科学を批判する人々の間でもコンセンサスがあるわけではないと思いますが、ここは私のブログですので私の主張を書いておきます。このような「思想」には問題点が大変多く含まれています。その第一歩は、「百匹目の猿」に代表される思想でしょう。簡単に言えば、みんなで祈れば願いは実現する、ってやつです。世界平和も願えば実現する、と。これは色々な意味で問題ですが、平和への地道な努力をまったく見ないという点で有害ですらあります。
「みんなで」というのが一つのキーワードですね。ここにゆるやかな連帯を感じ、心地良く感ずる人も多いと思います。しかし、これが曲者。「個」を相対化し、しかも相対化したままにする。独立した「個」の連帯ではなく、相対化されたままの「個」の連帯は、融合した「全体」に向かわざるを得ないと思います。そうなった時、自分が何かうまくいかないことがある、失敗してしまった、つらい、ということに直面したら、どうなるでしょうか。祈りが足りない、となりますね。「祈り」じゃなくてもいいんですが、要するに、例えば生活がつらいのは自分が怠けてる場合もあるだろうけど派遣切りだのなんだの自分ではどうしょうもない社会的な問題に起因するものだっていくらでもあるわけです。そこを捨象してしまい、すべて「自分」に還元していまう。「連帯」の幻想は、すべてを「自己責任」へと転化させる危険を孕んでいます。これは「空気を読む」ということに(私などから見たら)異常なまでにこだわる最近の風潮と似たようなものなのかもしれませんね。
ついでに余談ですが、最近都市部の大学では「トイレで食事をしないでください」と張り紙がしてあるとか。これは、学食で一人で食べているところを友人に見られたくないからだそうなんですが、別に一人で食べてたっていいじゃんねえ。トイレで食べるほどに空気読まないかんのかねえ。息苦しいだろうねえ。
このような「思想」は、まさに大衆支配のおそるべきイデオロギーでしょう。実際、そうやって社員に「生きがい」を持たせ、どんな長時間の過酷な労働も喜びに感じさせてしまうという社員教育をやっている企業もあると聞きます(ちょっと古いけど『カルト資本主義』でだいぶ取り上げられていますね。稲盛和夫の「アメーバ経営」なんてまさにその例らしいのですが、まだチェックできていません)。
別の面から言うと、本当は、受容者が受容してしまう心理をもっと分析しないといけません。そこはニセ科学の「蔓延問題」への対策としては極めて重要でしょう。心理学者の皆様におかれましては、ぜひ、そこを取り組んでいただければと思います。血液型性格判断対策の蓄積が活かせる場ではないでしょうか。というのが、とりあえずのメカさんへの噛み合った形での返答、ということになるでしょうか。
というわけで、長々と書いてきましたが、ここでようやくメカさんへの質問となります。メカさん言うところの「思想」とは、この図でいうとどのあたりをイメージされているのでしょうか?もちろん分析は人によって違うし、メカさんとしては現状は大雑把な枠組みを提出する段階のようですから、「ここ」と言っていただかなくてもいいのですが、大体どのあたりをイメージしているのかを言っていただくと、わかりやすくなると思います。受容者が受容する心理、というあたりでいいのでしょうか?(このあたりは次のエントリで)
ちなみに今まで(このエントリだけではなくて)「水伝」の「思想」と言った場合何を指すかというと、文脈によって異なります。「道徳」の部分を指す場合もあるだろうし、「波動」の部分かもしれない。あるいは「水伝」を受け容れる思想のことかもしれない。要するに「実験」の部分以外はしばしば「思想」と呼ばれることがあるわけで、私としては「思想」が何を指すのかがよくわからないのですよね。
さて、最後にもう一つ。オカルトや社会的に問題のある新興宗教などへの批判は昔からありましたよね。私はそれに一定の効果(あるいは意義と言ってもいいのですが)はあったと思っているのですが、そうは言ってもその類のものはなくならないですよね。江原啓之の人気、各種占い師の人気、いまでも色々ありますよね。では、どうしてなくならないのでしょう?
ニセ科学批判が(ネット上のごく一部とはいえ)それなりに注目され、まさにメカさんのような方がなんらかのコメントをしていくという状況は、それだけ今までの「思想」そのものに切り込むやり方に比べて斬新な面があった、ということなのではないでしょうか。ニセ科学批判が直接対峙できるものは限られます。「根拠」が客観的に検証できるもの、つまり「科学」の土俵で勝負できるもの、だけなんですよね。しかし、多くの(歴史の浅い)オカルトは、うっかり客観的に検証できる部分を内包してしまっています。だったら、そこを叩くというのは、戦略としてはもっとも(一番かどうかは別にして)有効ではないでしょうか。
私が自分が実際に人と話した事例を挙げたのは、効果があるということを感じながらやっていることを紹介するためでした。しかし、もちろんまだまだうまく行かない部分も多々あります。
たとえば最近も、「たしかに問題はいっぱいあるけど、世の中から排除するのは良くないよね」と心配そうに言われたことがあります。この人は、ニセ科学は問題だと思っている人なんです。私は排除するつもりなんて毛頭なくて、むしろなんとかせめて周辺化できないかと思っているだけなんですが、しかしメカさんが書かれた文章にも同様のことはあったし、ネット上でも似たような言説は時折見かけます。どうしてそういう意見が出てくるのかは真剣に知りたいんですよね。
もちろん、「思想」に直接切り込み、それが効果を挙げるなら、そうしたいんです。ハッキリ言って、「水伝」そのものはそう大きな問題ではない。それよりもむしろ、上の図での一番下のラインを私は最も危惧しているのです(教育に持ち込まれれば影響は長年続くだけに問題は問題なんですが)。しかし、どう切り込んだらいいのかわからない。そして、おそらく、思想への問題提起は昔からされている。そしてそして、私の得意分野はそちらというよりは(自然)科学の部分なのであって、だったら自分の得意なことを活かすのが合理的だと思うわけです。一人でなんでもやらなきゃいけないわけじゃないのだから、得意なこと・問題だと思っていることをそれぞれが取り組むことによって、いわば集合知として進んでいけば良い。
というわけで、メカさんには思想に直接切り込むことにぜひ取り組んでほしいし、どう切り込めば効果的なのかを教えてほしいのですよね。
(その2に続く)