8月9日とホルミシス(追記あり2009/1/5, 1/6) | ほたるいかの書きつけ

8月9日とホルミシス(追記あり2009/1/5, 1/6)

 というわけで、8月9日をむかえました(6日は出張先だったもので…)。
 最近とみに思うのが、たとえば長崎原爆の犠牲者が7万余、と言われるが、亡くなられた方々のみならず、幸いにして生き残った方々も地獄を見てきたということ(その地獄は被爆直後の惨状だけでなく、その後の周囲の人々の反応や、社会、政治との関係も含むだろう)、そして、その一人ひとりに、「数」では表わされ得ない固有の人生があり、ドラマがあるのだ、ということ。ごく普通に生きているように見えるお年寄りが、実は大変な人生を生きてきたのだ、と思うと、なんとも言えない気持ちになる。
 これはまあ原爆に限らず、戦災一般にも言えることではある(東京大空襲とか)。ただし、原爆の独自性は、「その後の人生」において、「被爆」の経験が「後遺症」として現れるのではなく、いつ病気を引き起こすかわからない「時限爆弾」を抱えて生きているということだろう。
 その意味で、物理学的に言えば、電磁気力に起因する化学反応の世界(原子・分子の結合・解離の世界)に生きる生物にとって、核力に起因する原子核反応によりもたらされる放射能は、実に異質な「能力」であると言えよう。エネルギースケールもタイムスケールも何桁も違うのである。
 核兵器はやはりすみやかに地球上からなくさないといけないと思う。「究極的」に、ではなく、期限を設けて廃絶に踏み出す必要があるだろう。

 さて、出張中に気になる記事が出ていた。『読売』 より。
「広島」少量被曝でも、がんリスク高い…名古屋大調査
 広島原爆の爆心地から2・7~10キロ離れた場所で被爆し、直接浴びた放射線量がごく少ない人でも、がんによる死亡リスクが高まることが名古屋大などの調査でわかった。
 「黒い雨」や放射性降下物などによる内部被曝(ひばく)や残留放射能の影響による可能性が高いと見られる。
 今春見直された原爆症認定の新基準では、3・5キロ以内の直接被爆者と、投下から100時間以内に2キロ以内に入った人などのがん、白血病などは積極的に認定されるようになったが、それ以外は個別審査の対象とされ、放射性物質の影響がまだ過小評価されているという批判もある。調査は宮尾克・名古屋大教授(公衆衛生学)らのグループが、日本衛生学会の英文雑誌電子版に発表した。
 日米両政府が出資する「放射線影響研究所」の寿命調査データのうち、広島の被爆者約5万8000人分を用い、〈1〉2・7キロ超~10キロ以内で被爆した「極低線量群」(推定被曝線量0・005?未満)〈2〉1・4キロ超~2・7キロ以内の「低線量群」(同0・1?未満)〈3〉1・1キロ超~1・4キロ以内の「高線量群」――の3群に分けた。
 これを非被爆者と比較したところ、極低線量群でも、白血病の死亡リスクは男性で3・14~3・15倍、肝臓がんは男性で1・73~2・40倍、女性で1・90~2・65倍とかなり高かった。
 放影研が行った従来の寿命調査では、広島と長崎の9万3000人の被爆者と、「非被爆者群」を比較しているが、後者には今回の調査の「極低線量群」が含まれ、被爆者と非被爆者の比較になっていないという指摘があった。
(2008年8月5日 読売新聞)
文中、「?」で表示されているのは、「シーベルト(Sv)」のことと思われる。
 なにが気になったかというと、例の「ホルミシス」である。ホルミシスとは、被曝線量が小さいと、かえって体にいいのではないか、という仮説である。ラドン温泉はまさにそれだろう(まあ温泉に入ればリラックスして気持ちもいいので、問題ない程度の放射線量だったら、リスクより温泉に入ったということで健康にはいいかもしれないが)。保守的な考えとしては、被曝線量が低く、実証的にリスクと被曝線量との関係がよくわからない領域では、被曝線量とリスクの間には比例関係が成り立つという「線型仮説」が使われてきた。しかし、それは保守的に考えれば、という仮説にすぎず、「しきい値」があってそれ以下ではリスクはゼロという仮説もあれば、ホルミシスのように、逆に健康にいい効果があるとする仮説もあるわけだ。
 このあたりのサイト を見ると(「放射線と健康を考える会」のサイト)、0.2Svで0Svと同程度の白血病リスクになり、0.1Svあたりで相対リスクは最低(つまり放射線を浴びない時よりもリスクが低い)ということが仮想されているようである。
 ところが、上の記事を見ると、0.005Svでもリスクが高いという結果になっている。つまり、ホルミシスとは真っ向から相対する結果であり、さらに線型どころか0.005Sv(=5mSv)以下のところに「しきい値」があることを示唆しているようにも見える。
 むろん、ホルミシス推進側も、一応は実証的に研究しようとしているので、そのあたりの齟齬が今度どう決着がついていくのかは見守らなくてはならないが、いずれにしても、まだ実証されていない効果を実際に効果があるかのように宣伝するのは許されないだろう。原発推進勢力は宣伝の片隅にホルミシスを置くことが多いようだが、ことが命にかかわるだけに(そして被爆者にとってはまさに己の人生と今後の生活にも関わることだ)、強く批判していくことが必要かもしれない。

 ところで、爆心からの距離と被曝線量との関係は、どうも指数関数的になっているようなのですが、なんでなんですかね?直感的には距離の自乗に反比例しそうなんですが。γ線と中性子線から被曝線量を計算しているようなので、中性子の崩壊が効いているのかな。半減期を考えると無視して良さそうな気もするのだけれど、中性子崩壊は確かに指数関数的なので、重要なのでしょうかね。
 ざっとネットを見ただけではわからなかったのですが、もし御存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。

 ホルミシスについては、以前のエントリ「ホルミシスと原子力発電 」もどうぞ。

(2009年1月5日追記)
あの奥村晴彦さんのブログ にコメントを寄せたところ、速攻で返事をいただいた。(^^)
指数関数的減衰の起源は、大気中の原子核との衝突によるのでは?とのこと。確かにそういう気がします。というのは、大気中の原子核密度の空間変化が無視できれば、放射線強度は指数関数的に減衰するはずだからです。
 文献もなにも調べずちょっと適当に見積ってみます。放射線強度をI、大気中原子核密度をn、散乱断面積をσとし、放射線は種類に関わらず光速c=3×10^8[m/s]で走るとします。すると、強度の時間変化は
   dI/dt ~ -nσcI
程度になります。この解(時刻t後の強度)は、
   I ∝ exp(-nσct)
となります。n として1気圧での原子核密度(1molで22.4L)、σとしてごくごく単純に幾何断面積(10^{-15}[m]の自乗)をとってみると、nσc~10^4ぐらいになります。走る時間t は、3[km]走るとすると 3×10^3/c=10^{-5}[s]なので、そうだとすると、強度は10^{-1}ぐらい減りますね。
 断面積はよくわからなかったのですが、wikipediaの記述 を見ると、平均自由行程が大気中で220mとあります。そこから逆算してみると、
   σ~1/(nl)~1/(3×10^{25}*2.2×10^2)~10^{-28}
で二桁ぐらい大きいようです(質量数がN、Oでそれぞれ14,16で断面積が質量数の2/3乗になること、及び二原子分子であることを考えると、1桁程度は大きくなりそうですが)。これを使うと、強度は(nσct~ct/l~3km/220m~15)
   dI/I ~ exp(-15) ~ 3×10^{-7}
となって、3km地点では大半が大気に吸収されることになりますね。もっとも元の中性子量が莫大ですから、影響は明らかにあるでしょうが。


(2009年1月6日追記)
mobanamaさんよりはてブで以下のようなコメントをいただきました。ありがとうございます。
mobanamaさんによる本エントリへのブコメ
名古屋大調査はコントロールの設定が岡山というのが問題っぽい。医原性の肝炎を考慮に入れねば肝がんリスクなど問えまいに。広島市はC型肝炎が多い地域。/ホルミシスを問う以前に線量に対するリスクを考えるべき。
また上記奥村さんのエントリへのブコメ
ホルミシス自体はニセ科学ではないが「健康に良い」と断言するのは「トンデモ」。"広島原爆被爆者発がん率等の解析"は広島市に多いC型肝炎を考慮に入れていない点で眉唾。
まずコントロールの問題は、たしかにそうですね。バックグラウンドレベルを揃えないと話が変わるので、それはその通りだと思います。私がこの新聞記事に注目したのは、問題意識としてはまさに同じで、いままでの研究ではバックグラウンドレベルと思っていたものが実はそうでもないらしい、という報告だったのが理由です。
 ただ、(相変わらず元論文にあたっていないので大変申し訳ないのですが)記事によると肝がんだけではなく白血病のリスクも上がっています。そのあたりはどうなのでしょうね(白血病にも地域差などあるのでしょうか。あるいは肝がんとの相関とか?)。

 次に「線量に対するリスクを考えるべき」というコメントですが、なんせはてブで文字数が少ないもんで真意が取れているか自信がないのですが、文脈から、必要以上に放射線を恐れないようにすることの方が重要(放射線の影響を定量的に理解する)ということかな、と受け取りました(違っていたらすみません)。それもまたその通りだと思います。ただし、対象が同じ放射線でも内容が全然違いますから、どちらを優先させるかというのは各自の問題意識によると思います(いわゆる優先順位問題)。もっともホルミシスのような微妙な問題を理解するには定量的な把握ができていないとそもそも何が問題かわからないでしょうけど。なんにせよ、ニセ科学で問題になる「いい悪いの単純な二分法」ではダメ、というのはここでも同じですね。
 ついでに断言するのはトンデモということですが、関連エントリ「ホルミシスと原子力発電」で取り上げたように、電力会社などがやっていることは、断言せずとも事実上「良い」と臭わせて人々を誘導しているように見えて仕方がないのですよね。一種のバイブル商法というか。マイナスイオン問題と同じですが、メーカーは決して「マイナスイオンが健康にいい」とは言わないわけです。それは別の人々が別の場所で言ってくれる。消費者は、「あ、マイナスイオンが出る機械なんだ、きっと健康にいいに違いない」と「勝手に」判断してくれる、「勝手に」付加価値を見出してくれるわけです。
 もちろん、結果的にホルミシスが肯定的な方向で検証される可能性もあるでしょう(マイナスイオンもそれは同じ)。しかし、現状ではまだなんとも言えないわけで、そういう状況で誘導に使う(あるいは商売に使う)のは批判されてしかるべきかと思っています。

 最後に奥村さんのブログでmobanamaさんから示していただいた日本語の文献 (PDFです;「放射線影響協会 」というところが出しているのですね)をざっと見てみました。面白いですね。教えていただいてありがとうございます。
 疫学の知識がないもので、深くは理解していないのですが、前半の疫学的なところでは、いわゆる線型関係を否定するところまでは行っていないように見えました。やはり低線量被ばくでは影響がそもそも小さいため他の要因と切りわけるのが難しいようですね。
 ついでに同じ団体が出している『放射線の影響がわかる本』の内容が、同サイトによって公開 されていました。第2章にホルミシスのことが書いてありますが、うーん、ちょっといい方に書きすぎじゃないかなあ、という印象を持ちました。いちおう最後に、マウスなどの結果を人間にあてはめていいのかどうか、今後いっそうの研究が待たれます、というようなことが書いてはあるのですが…。
 後半の作用機序に関するところはとても勉強になりました。動物実験だけでなく、放射線治療を行ったヒトのリンパ球を採取するなどの実験も行われているのですね。遺伝子修復機構を活性化させるということのようですが、こういった実験が積み重ねられて、定量的にリスクが判断できるようになればいいと思っています。ただ、現状ではまだ示唆の段階であるというべきかな、と思います。