「構成主義という用語の意味と理科教育」:物理学会誌より
前回
のつづき。二本目の論文、大野栄三氏の「構成主義という用語の意味と理科教育」から。
教育における構成主義にも色々な意味があるそうで。色々な意味、というより、人によって意味するものが違う、と言うほうが正確か。
ここではその源流として代表的な二つの理論、あるいは二人の心理学者、ピアジェとヴィゴツキーについて論じている。
ピアジェはまあ結構有名だろう。その筋ではスタンダードなのだと思う。私も教育心理学の講義で習った記憶がある(習ったなあ、という記憶があるだけで、その内容は憶えていないのだが^^;;)。ピアジェは子どもはシェマと呼ばれる「外界の事物をとらえる心的構造」を構成することによって物事を認識するとした。つまり、主体は客体を主体にシェマを構成することで能動的につかんでいく、というわけだ。これによって子どもは精神発達をとげていく。個人の精神発達に注目するので、個人的構成主義とも呼ばれるそうだ。
これは、ある意味当たり前の話で、子ども(に限らないだろうが)物事を理解するというのは新たに認知した現象を既存の知識の中に位置づけるということなのだから、個々人の頭の中でその現象を構成しない限りは理解したことにはならない。ところが、これが「詰め込み教育」への反省として一面的に強調されるあまり、能動的に構成するということだけに注目し、教師が子どもに知識を与えるのは悪しき誘導であり子どもたち自身が掴み取らなければいけない、ということになり、妙な形の「ゆとり教育」になっていったのだろう。
単なる詰め込みを排し、子どもが能動的に構成していくような教育をすすめるのは当然でもあるのだが、その中身が議論されずに―あるいは学習指導要領という形で現場に押し付けられ―いびつな形になっているのが現在なのだと思う。
さて、ピアジェに対抗する大物が、ヴィゴツキーである。と言っても私もよく知らないのだが(少し前にヴィゴツキーについての新書を一冊読んだことがあるだけ)、ピアジェと同年に生まれたにもかかわらず、40前に亡くなってしまった人である。
彼の「発達の最近接領域の理論」では、子どもが独力で取り組める課題だけではダメで、大人(なり年長者なり、要するに他者)がより高次の内容を指導することによって子どもは発達する、というものである。これも経験的には当然に思える。基礎知識をきっちり教えるという意味だけでなく、同年代や少し年の違う集団で遊び学ぶことによって、子どもは色々なものを吸収していく。
このように、個人ではなく、集団によって知識が構成されていく(仮説実験授業もこの流れに位置づけることが可能であるようだ)ので、社会的構成主義とも呼ばれる。
いずれも当然といえば当然の主張であり、相補的に取り入れていくことによって効果的な理科教育が可能になるように見える。しかし、構成主義を主張する人の中には、悪しき相対主義に染まり、これを小中学校教育に持ち込もうとするものがいる。これは避けなければならない。ただし、だからと言って構成主義そのものを全て捨ててしまうのもよろしくない、というのが著者の主張である。
その上で、著者が述べるのは、問題は、学習指導要領の拘束力である、ということである。1947年作成の学習指導要領には「試案」の文字が付されていたという。ところが、1958年以降、拘束力を持つこととなる。実際には、指導要領の「解説」で詳細が述べられるのだが、ここに執筆者の個人的思想が持ち込まれ、教師を拘束するのだ。
著者は、学ぶ力・考える力を子どもに要求するならば、まず大人が実践しなければいけない、そのためには現状の強い拘束を外さなければならないと主張する。私もそう思う。「解説」という形で特定の人物の思想が強力な拘束力を持ち現場を左右する状態は明らかにおかしいだろう。
教師が自発的に考えられる状況をつくることが必要である。そのためには指導要領の拘束力を緩和し、また教師が集団として機能できるよう、各種の雑用を減らし、議論の場・時間を増やすことが必須であろう。東京都教育委員会が職員会議での挙手による採決を禁止するという馬鹿げた措置を出してしばらく立つが、そのような上からの押し付けにより現場が畏縮し、教師がものを考えられなくなりつつあるそうだ。それに危機感を抱いた校長が、教育委員会に方針の撤回をもとめたというのが最近も報道された。
教師が自分で考える時間を保障せずにアレコレ上から押し付けても状況は悪化するばかりである。教師を増やし、自発性を尊重し、教師にこそゆとりを持たせることが重要だろう。
多くの教師が採点や部活の指導で夜も土日もなく頑張っている。世の中がそういった教師たちの献身的な努力を当然視してしまえば、どんな対策をしても教育の荒廃は止められないだろう。
やはり、教師の自発性を尊重するということが、すべての根源なのではないか、と私は思う。
教育における構成主義にも色々な意味があるそうで。色々な意味、というより、人によって意味するものが違う、と言うほうが正確か。
ここではその源流として代表的な二つの理論、あるいは二人の心理学者、ピアジェとヴィゴツキーについて論じている。
ピアジェはまあ結構有名だろう。その筋ではスタンダードなのだと思う。私も教育心理学の講義で習った記憶がある(習ったなあ、という記憶があるだけで、その内容は憶えていないのだが^^;;)。ピアジェは子どもはシェマと呼ばれる「外界の事物をとらえる心的構造」を構成することによって物事を認識するとした。つまり、主体は客体を主体にシェマを構成することで能動的につかんでいく、というわけだ。これによって子どもは精神発達をとげていく。個人の精神発達に注目するので、個人的構成主義とも呼ばれるそうだ。
これは、ある意味当たり前の話で、子ども(に限らないだろうが)物事を理解するというのは新たに認知した現象を既存の知識の中に位置づけるということなのだから、個々人の頭の中でその現象を構成しない限りは理解したことにはならない。ところが、これが「詰め込み教育」への反省として一面的に強調されるあまり、能動的に構成するということだけに注目し、教師が子どもに知識を与えるのは悪しき誘導であり子どもたち自身が掴み取らなければいけない、ということになり、妙な形の「ゆとり教育」になっていったのだろう。
単なる詰め込みを排し、子どもが能動的に構成していくような教育をすすめるのは当然でもあるのだが、その中身が議論されずに―あるいは学習指導要領という形で現場に押し付けられ―いびつな形になっているのが現在なのだと思う。
さて、ピアジェに対抗する大物が、ヴィゴツキーである。と言っても私もよく知らないのだが(少し前にヴィゴツキーについての新書を一冊読んだことがあるだけ)、ピアジェと同年に生まれたにもかかわらず、40前に亡くなってしまった人である。
彼の「発達の最近接領域の理論」では、子どもが独力で取り組める課題だけではダメで、大人(なり年長者なり、要するに他者)がより高次の内容を指導することによって子どもは発達する、というものである。これも経験的には当然に思える。基礎知識をきっちり教えるという意味だけでなく、同年代や少し年の違う集団で遊び学ぶことによって、子どもは色々なものを吸収していく。
このように、個人ではなく、集団によって知識が構成されていく(仮説実験授業もこの流れに位置づけることが可能であるようだ)ので、社会的構成主義とも呼ばれる。
いずれも当然といえば当然の主張であり、相補的に取り入れていくことによって効果的な理科教育が可能になるように見える。しかし、構成主義を主張する人の中には、悪しき相対主義に染まり、これを小中学校教育に持ち込もうとするものがいる。これは避けなければならない。ただし、だからと言って構成主義そのものを全て捨ててしまうのもよろしくない、というのが著者の主張である。
その上で、著者が述べるのは、問題は、学習指導要領の拘束力である、ということである。1947年作成の学習指導要領には「試案」の文字が付されていたという。ところが、1958年以降、拘束力を持つこととなる。実際には、指導要領の「解説」で詳細が述べられるのだが、ここに執筆者の個人的思想が持ち込まれ、教師を拘束するのだ。
著者は、学ぶ力・考える力を子どもに要求するならば、まず大人が実践しなければいけない、そのためには現状の強い拘束を外さなければならないと主張する。私もそう思う。「解説」という形で特定の人物の思想が強力な拘束力を持ち現場を左右する状態は明らかにおかしいだろう。
教師が自発的に考えられる状況をつくることが必要である。そのためには指導要領の拘束力を緩和し、また教師が集団として機能できるよう、各種の雑用を減らし、議論の場・時間を増やすことが必須であろう。東京都教育委員会が職員会議での挙手による採決を禁止するという馬鹿げた措置を出してしばらく立つが、そのような上からの押し付けにより現場が畏縮し、教師がものを考えられなくなりつつあるそうだ。それに危機感を抱いた校長が、教育委員会に方針の撤回をもとめたというのが最近も報道された。
教師が自分で考える時間を保障せずにアレコレ上から押し付けても状況は悪化するばかりである。教師を増やし、自発性を尊重し、教師にこそゆとりを持たせることが重要だろう。
多くの教師が採点や部活の指導で夜も土日もなく頑張っている。世の中がそういった教師たちの献身的な努力を当然視してしまえば、どんな対策をしても教育の荒廃は止められないだろう。
やはり、教師の自発性を尊重するということが、すべての根源なのではないか、と私は思う。