「構成主義とは何だろうか―科学哲学の視点から―」:物理学会誌より | ほたるいかの書きつけ

「構成主義とは何だろうか―科学哲学の視点から―」:物理学会誌より

 先月号(5月号)の「日本物理学会誌」の特集「シリーズ『物理教育は今』小特集:日本の理科教育の現状と問題点」の(2)構成主義と理科教育が出た。出たと言ってももう2週間ぐらい前に届いて読んでたのだが、なんだか機会を逸してしまい、だいぶ遅くなってしまった。前回4月号についてはこちらのエントリ(「ポストモダン的構成主義教育論:今月の『物理学会誌』」) を参照されたい。
 今回も2本の論文が出ている。野家啓一「構成主義とは何だろうか―科学哲学の視点から―」と大野栄三「構成主義と言う用語の意味と理科教育」である。とりあえず今日は野家論文を取り上げる。
 取り上げると言っても、これは構成主義について簡潔にまとまったレビューでもあるので、私が重要と思った点のみ引用する形で紹介する。

 構成主義は様々な分野で様々な使われ方をしているが、まずポイントの一つは、概念の実在性に対する根本的対立である。数学においては、有限回の操作で確実に構成できるもののみを認めるのが構成主義的立場、それに対立するのが、数学的対象が構成手続きとは独立に実在する立場、ということだそうである。これを物理学に適用するならば、法則として記述される(た)もののみを認めるのか、法則はあくまで人間が自然界の観察を通じて構成して得たものであり、自然は自然として実在する、という立場に立つのか、という対立に相当すると思われる。
 ところが、特に科学論の分野では、急進的な(と言っていいのかわからないが)研究者により、科学的知識でさえも社会学的観点から説明されなければならない、とする「科学知識の社会学」が出てきた。
 しかし、普通の科学者であれば、これは意図的かどうかはともかく、人類が記述する法則と、法則が(近似的にせよ)反映する自然との混同であると思うだろう。これに関連することとして、野家氏は次のようにのべる。
 科学研究活動が社会的事象であることは、予算獲得競争や学会政治を見るまでもなく明らかである。それゆえ、この側面について科学社会学的分析が適用されることには何の問題もない。それどころか、必要でさえあろう。だが、精神医学や人類学など人間に関わる学問領域を除けば、科学理論の内容にまで社会的構成の概念が適用できるかどうかは疑問である。ハッキングが「プロセスとプロダクトの間の区別」に注意を促しているように、概念形成の過程に対しては科学社会学的分析が有効であるにしても、その所産である理論内容についてそうした分析が有効であるとは思われない。科学論における社会構成主義には、その区別に対する配慮が少々欠けているのである。
ハッキングの著書を持っていないので「プロセス」と「プロダクト」が意味するものが曖昧であるが、ともかく、科学者コミュニティの動向についての分析と、科学理論そのものについての分析は区別されなければならないのはその通りである。その区別が少々どころかまったくない人もいるので困るのであるが(少数派であることを望む)。なお、「科学理論」が指すものが自明ではないのでなんともいえないのだが、ここで野家氏は自然それ自体についてはなにも語っていないように見える。法則を「発見」するための概念形成について、と、「発見」された法則とを区別せよ、という段階に留まっているように私には見える。

 さて、構成主義の位置づけについては、次の文章が示唆的である。
 これまで見てきたように、構成主義の主張は総じてメタ・レベルの認識に関わる議論であり、直接に対象認識のレベルに関わるものではない。つまり、構成主義はメタ数学(数学基礎論)、メタ認識(認識論)、メタ科学(科学論)などの反省的次元で論じられている事柄なのである。カントの言葉を借りれば、それは「対象に関する認識」ではなく、むしろ「対象を認識する仕方」に関する考察なのであり、それゆえ広い意味での哲学的考察に属している。
つまり、物理法則(に象徴される我々の認識)が外界をストレートにそのまま反映したものであるという素朴な考えに対する批判、反省としての意味が重要なのである。だから、野家氏の主張も、小中学校の理科教育では「素朴実在論」でいっこうに構わない、と述べている。構成主義的考え方は、高等教育で(の分離融合型の科目を通じて)一定の科学的知識をすでに習得した学生に対して教えられるべきである、となっている。

 無論、我々が自然をどう認識するかについては、社会的状況を含めた外的要因に左右される部分はある。したがって、現在我々が手にしている物理法則も、その意味では我々が構成してきたもの、という言い方は可能である。しかし、それはあくまでも数多の実験を通じて得たものであり、「素人」―プロの研究者であっても、専門分野外については「素人」である、という意味の「素人」を当然含む―がちょっと考えたくらいで思いつく(構成した!)「理論」「法則」と対等ではない。その重みの違いを無視すると、悪しき相対主義への道をまっしぐら、ということになってしまう。
 さて、理科教育に忍び込む相対主義は、おそらくは人間の自然法則の発見プロセスを辿ろうという、ある意味「善意」の部分があるのではないか、という気がしている。ところが、上で書いたように、その道のプロが構成した法則と、素人が構成した法則には雲泥の違いがある。それを無視した教育には大きな問題があるだろう。それについては、次回、もう一本の大野論文の紹介の中で触れることとしたい。

 なお、今回ここで書いたようなことは、「RikaTan」5月号での田崎晴明さんの文章を読むと非常にわかりやすいと思う。実に明解に相対主義の批判をしている。興味のある方は参照されたい(ウェブ上に置いていただくととても参考になると思うのだけれど、商業誌掲載の文章だから難しいですかね?)。