1924年、ノースカロライナのニューランドで、僕は生まれた。5歳ごろ、家族でニューヨークのブルックリンに移住、僕の記憶はここから始まる。
僕の母はゴスペルのシンガーだった。その影響で、家の中にはいつも音楽が流れていた。その音楽に合わせて、家中の物を叩くのが好きな子供だったそうだ。
そんな僕を見ていた母親の勧めで、10歳ごろから彼女の歌っている教会で、ドラムを叩き始めた。そこでの経験は、それは素晴らしいものだった。広い教会に響き渡る音楽に溶け込んだ瞬間、僕は暖かく、美しい楽園にいるような気分になれた。世界と自分との境界線が薄まり、存在する全てと一つになったような気がした。ずっとそんな気分に浸っていられたら、どんなにか幸せだろう。
しかし、そこから一歩外に出ると、世界はそれほど優しいものではなかった。黒人として生まれた僕にとって、アメリカの社会はあまり生きやすいものとは言えなかった。ごく控えめに言って。
家や教会の外では、僕らは常に、醜く愚かで劣った存在として扱われた。道で白人に会えば道を譲り、帽子を脱いで頭を下げることを要求された。逆らえば待っているのは過剰な暴力。こんな些細なものでも理由があるならまだマシな方で、白人と目が合っただけで、あるいはまったくの気まぐれで殴られることも珍しくはなかった。家にいる時にしても無条件で安心できるというわけではなく、いつ白人至上主義者の集団に襲われて命を奪われるかもわからない、不安で、抑圧された日々を、僕ら黒人は過ごしていた。
10代の半ば頃になると、僕はハーレムのジャズクラブに出入りするようになった。理由は憶えていない。大方ラジオで聴いたジャズに興味を持ったからとか、その程度のものだったのだろう。
きっかけは軽いものだったが、僕はすぐにジャズに夢中になった。僕はジャズに、熱く、新しい何かを感じていたし、そのジャズも、新しい変化を迎えていた時期だった。僕がジャズを聴く側から、演奏する側に回るまで、そう時間はかからなかった。
18の歳、僕はある有名なバンドのドラムの代役に呼ばれた。その時の演奏はとてもスリリングで素晴らしい経験だったが、僕の人生にとってより重要だったのは、その仕事以来、僕の知名度が飛躍的に上がったことだった。そのおかげで、名のあるミュージシャンとの共演や、有名なクラブでの演奏機会が増え、演奏のギャラだけで生活ができるようにもなった。
しかし、ジャズシーンでどんなに有名になっても、クラブから一歩外に出れば白人たちに唾を吐きかけられる二級市民であるのは相変わらずだった。レストランから入店を拒否され、厨房の裏口で食事を摂る羽目になり、ツアー先ではホテルが使えず、バスの狭い座席で眠ったり、時には野宿を強いられることすらあった。ステージ以外での僕は、子供のころと変わらず、惨めな存在であり続けたのだ。
20代半ば頃のある日、僕のもとにとある仕事の話が舞い込んだ。パリで開催される国際ジャズフェスティバルに出演するバンドで、ドラムを叩かないか?というのである。僕は二つ返事でその話を引き受けた。フランスにジャズブームが来ていることを人づてに聞いて知っていたこともあったし、何より、若者らしい好奇心から、外の世界を見てみたいという気持ちが強くあったからだ。
実際フランスに渡ってみると、そこでの経験は衝撃的なものだった。フェスでの演奏はもちろん素晴らしいものだったのだが、それ以上にフランスの人たちの私たちへの扱いが、想像を絶するものだったのだ。
まず、宿泊先のホテルには三つも星がついていたし、どのレストランにも自由に出入りでき、白人たちと同じ食事ができた。アメリカでは一歩外に出ればサルとヒトの中間のように扱われていた僕らが、パリの街では最先端の芸術家として尊敬をもって受け入れられた。まったく信じられなかった。どこにいるときも、蔑みや暴力におびえることのない生活。そんな日々を、生まれて初めて、故郷からはるかに離れたこの国で経験することができたのである。フランスに滞在したこの二週間かそこらの日々は、僕の人生にとって間違いなく最良の物の一つだった。ずっとここにいられたらいいのに、本気でそう思えるほどに。
しかし時の流れというのは無情なもので、帰国の日はすぐに訪れた。
帰国後、僕はまたもとのようにクラブでの演奏生活に戻った。いろいろなミュージシャンとの共演やレコーディングを繰り返し、僕の演奏者としての評価はどんどん上がっていった。何作かのリーダー作も発表し、それらの作品も聴衆に好評を持って迎えられた。
しかし、音楽から一歩離れれば状況は渡仏前と何ら変わりはなかった。白人たちからすれば僕ら黒人は相変わらず人間未満の無知で愚かで不潔な生き物に過ぎなかったし、それは僕が音楽の世界でどれだけ成功しようとも変わらなかった。いや、むしろ成功すればするほど、彼らの僕に対する憎悪は深まっていくようだった。
ある日、僕はニューヨークのあるクラブで演奏していた。演奏の合間、店の外でタバコを吸っていると、そこに三人の白人がにやにや笑いを浮かべながら近づいてきた。息がひどく酒臭い。
「おいニガー、そんな所に突っ立って何してやがる?」
「何って、タバコを吸っているんですよ」
無視すると逆上されかねない。渋々答えてやる。
「おまえ目障りだぞ、どっか他へ行けよ」
「そうできればいいんですがね、残念なことに僕は今日この店で演奏してるんですよ。なのでご要望にはお答えできかねますね」
僕の答えが気に食わなかったのか、真ん中の一人が僕の胸ぐらを掴んできた。
「てめえ舐めてやがんのか!」
その勢いで僕の後頭部は店の壁に強か打ち付けられ、足元がふらつく。
「舐めてんのかって聞いてんだよ!」
男の拳が僕の顎を捉える。立っていることができず、僕は硬い地面に膝をつき、前のめりに倒れた。しかしそれでも、暴力は止まらなかった。残りの二人も加わり、僕を殴打し、蹴りを入れ続けた。薄れていう意識の外で、なんとか言えだの、腐れニガーだの、劣等人種だのというような叫び声が聞こえ続けていた。
目を覚ました時、僕は知らないベッドの上に横たわっていた。全身が痛い。あまりの痛みにまた気を失うんじゃないかと思ったほどだ。耐え切れず呻き声を上げると、聞きつけた家の主の男が姿を現した。男は古い友人で、事件の日、クラブで一緒に演奏していたテナーサックス奏者だった。外の騒ぎに気付き店を出ると、血塗れの僕が倒れているのを見つけたそうだ。白人どもはすでに立ち去った後だった。彼は僕を抱えて病院を回ったが、どの病院でも、僕が黒人であることを理由に入院はおろか治療すら拒否され、仕方なく自分の家に運んで、できる限りの手当てをしてくれたらしい。顔はパンパンに腫れ上がり、身体中は痣だらけで、骨も何箇所か折れており、このまま目を覚まさないのではないかと不安だったという。
僕が何とか自力で生活できるようになるまで、半年ほどの時間を要した。その半年間は痛みとの闘いの日々だった。友人にモルヒネを手に入れてもらい、それを常用することで、何とか痛みに耐えた。歩けるようになるころには、僕はすっかりモルヒネ中毒患者になっていた。
痛みがなくなってからも、僕の身体はモルヒネを求め続けた。離脱症状というやつだ。倦怠感、過剰な苛立ち、不眠、全身の痛み。症状を打ち消すため、僕はモルヒネを使い続けた。
演奏活動を再開してからも、それは変わらなかった。薬を使わなければ、とてもドラムを叩けるような状態ではなかった。しかし、モルヒネというのは入手難度の低い薬ではない。決して安い薬ではなかったし、医者も僕にモルヒネを処方するのを拒み始めていた。何度も薬を断とうと試みたが、その努力が実ることはなく、薬を手に入れるために方々を駆けずり回る日々が続いた。
問題は他にもあった。怪我の後遺症で、僕は元のようにドラムを叩くことができなくなっていた。おそらく素人の治療しか受けられなかったために骨の癒合がうまくいかず、変形してしまったのが原因だろう。僕の演奏家としての評判はどんどん下がり、ほかの演奏者からも、聴衆からも徐々に蔑まれるようになっていった。
そんなある日、一人の演奏仲間からある薬を勧められた。その薬はモルヒネと比べて安価で、簡単に手に入り、即効性が高く、しかも強い効果が期待できる。ヘロインだ。
当時ヘロインはミュージシャンの間で広く使用されている薬だった。僕の周りにも多くの使用者がおり、その大半が中毒者だった。才能ある演奏家がその薬で身を持ち崩し、シーンから去っていく例を数多く目にしてきたので、僕はヘロインに対していい印象を持っていなかった。だから、できうるならばそんなものと関わり合いになりたくはなかった。しかし、そんなことを言っていられないほど、僕の苦しみは我慢ならないものになっていた。僕は、その薬を勧めてきた演奏仲間を通じ、最初のヘロインを手に入れた。
初めてそれを静脈に流し込んだ時のことを、僕は忘れることができない。それほど、それは強烈な体験だった。体が空へ昇り、暖かく、心地よい雲に包み込まれたような感覚。身体中の痛みが一瞬で消え去り、いつも感じていた不安も惨めさも、意識の彼方へ溶けていった。
数時間後、世界が色を失い始めた。身体は少しずつ冷たくなり、痛みの感覚が冷えた身体を覆い始めた。世界の全てが無意味に感じられ、心の中を虚無感が支配した。薬を打つ前の方がよほどマシだったとさえ思えるほど、ひどく惨めな気分だった。
そうだ、もう一度薬を打てば……。
僕がヘロインに依存するまでに、そう時間はかからなかった。というより、初めて打ったその時から、僕はこの薬に依存していたと言っていいだろう。打てば打つほど、薬が効くまでの時間は長くなり、効いている時間は短くなった。それに従い、摂取する頻度もどんどん増えていった。
それ以降の僕は、薬で意識が朦朧としているか、禁断症状で使い物にならないかのどちらかだった。そのお陰で、ただでさえ評価の下がっていた演奏はさらに質が下がり、仕事の量もどんどん減っていった。収入は減り、薬代は増えていった。
そんな日々がどれほど続いただろうか。僕はすっかり貧しくなり、ほとんどホームレスのような生活を送っていた。場末のクラブでドラムを叩き、小銭程度のギャラを受け取っては、その金でヘロインを買う。それでも足りなくなると、知り合いを辿っては金を借り、そしてまたヘロインを買った。
ある日、懇意の売人に値切り交渉をしていると、その売人がこんなことを言い出した。
「なあ、金がないんだったら、別なのを使ってみないか?安くていいやつがあるんだ。一つただでやるから試してみろよ」
そう言って、一粒の角砂糖を僕に手渡す。
「おい、馬鹿にしているのか?金がないなら砂糖でも舐めてろって?」
「おいおいそうかっかするなよ。禁断症状でいらついつるのはわかるが、俺に当たらないでくれ。そいつは確かに角砂糖だが、ただの角砂糖じゃない」
売人曰く、LSDとかいう新しい薬が染み込ませてあるらしい。
使ったことのない薬にどれほどの効果があるかわからなかったので、僕は無理を言って持ち金全部を払い、ヘロインも買ってねぐらに帰った。
その頃僕が寝泊まりしていたのは、港近くの廃倉庫だった。ひどく寒いねぐらだったが、少なくとも屋根と壁はある。その頃の僕にはむしろ贅沢なねぐらだったと言っていい。
隅っこに座り込み、さっき貰った角砂糖をポケットから取り出すし、しばし眺める。こんなもので本当に楽になれるのだろうか。まあ、ただで手に入れたものだ、どちらでもかまわない。僕はそのキューブを口に放り込んだ。
少し待ってみたが、何も変わらない。騙されたのだろうか?効果を待つ間も強くなる一方の禁断症状に耐え切れなくなり、僕はヘロインも打つことにした。
気がつくと、僕は美しい楽園の中にいた。暖かな草の上に、僕は身を横たえていた。そこは素晴らしい場所だった。なんと言ったらいいのだろう、そこかしこに恩寵が満ちているように感じた。ぽかぽか注ぐ陽の光に、優しく吹く風に、きらきら輝く木の葉の緑に、さえずる小鳥たちの声に、静かに流れる小川に、あらゆる所に神が偏在しているように思えた。僕は、全ての苦しみから解放され、僕にその苦しみを与える世界から救われたように感じた。遠い昔にいつの間にか失ってしまった楽園。失ってしまったことさえ忘れていた楽園を、ようやく取り戻せたように感じた。それは、この薬が見せた楽園の幻視だった。
そんな幻に浸りながらも、僕にはわかっていた。これは悪の薬であり、そしてこの救いは悪の救いだった。そんなことは、朦朧とした僕の頭でも理解できた。
だが、救われることは悪だろうか。僕はそんなにも、罪深い存在なのだろうか。
そこから先、僕は考えるのをやめた。こんなことを考えるには、ここはあまりに心地良すぎたのだ。
ここは暖かかった。僕の身体がどんなに冷たくなろうとも、この楽園は暖かかった。
お題:フランス、悪の、ドラマー