こんにちは、治療家の赤塚です。
ブログにご訪問頂き、ありがとうございます😊


病気や痛みには、さまざまな背景があります。

身体の使い方、生活習慣、過去のケガなど、物理的な原因を探し、身体を整えていくことはもちろん大切です。

僕自身、治療家としてずっと身体を診てきました。

けれど最近、治療をしている中で、自分自身に問いかけることが増えました。

本当にこの人を「治す」ためだけに、この人の身体と向き合っているのだろうか。

「この症状をどう治すか」という観点を、いったん手放してみる。

治療する側と、治療される側。

健康と病気。

治った、治っていない。

そうした分け方から少し離れて、

いま、この人と私との間で何が起きているのだろう。

そこから身体を観てみると、それまでとは違うものが見えてくることがあります。

治療家なのに「占い」を用いる理由

治療の中で、必要に応じて「Lifes(ライフェス)鑑定」を使います。

Lifesでは、その人がどんな性質を持ち、どんなエネルギーや役柄をこの人生で体験しようとしているのかを観ていきます。

いわば「魂の取扱説明書」や「人生の設計図」のようなものです。

「治療家なのに占い?」

そう思われる方もいるかもしれません。

LIFESで病気の原因を当てたいわけではありません。

占いによって病気を治そうとしているわけでもありません。

むしろ、大切なのは逆です。

Lifesを開くことで、治療家である僕自身が持っていた「治さなければならない」という観点から、いったん外れてみる。

患者さんとしてその人を見るのではなく、一人の人間として向き合う。

この人はいま何を生きているのだろう。

身体は何を表しているのだろう。

そして私自身は、この人を前にして、何を見ようとしていて、何を見ないようにしているのだろう。

答えを決めずに観ていく。

すると、ときどき思いもしなかったところで、身体と人生がつながり始めます。

何度整えても戻ってしまう「ねじれ」

この日いらしたのは、長年通ってくださっている方でした。

いつものように身体を診て、整える。

それだけでも治療としては成立していたと思います。

実際、身体の歪みそのものは許容範囲まで整いました。

ただ、この方には以前から特徴的な「ねじれ」がありました。

物理的に矯正すると、一度は戻る。

けれど時間が経つと、また同じようなねじれが現れる。

これまで何度も、そのねじれを整えてきました。

ところがこの日は、なぜか、

「今日は、いつもの治療だけではない気がする」

という感覚がありました。

そこでLifesを開いてみることにしました。

星やシンボル、人生のシナリオを一緒に観ながら話していく。

すると、そこに現れてきたものと、ご本人がまさに今悩んでいたことが、不思議なくらい重なり始めました。

描きたい。でも、外へ出すことが怖い

その方は長年、抽象画を描いています。

ところがここ数年、思うように描けなくなっていました。

Lifesを観たときに出てきた一つのシナリオが、

「人の潜在意識を刺激する」

というものでした。

そこから話が動き始めました。

本当は描きたいものがある。

内側から出てくるものがある。

けれど、それをそのまま表現したら、誰かを刺激してしまうかもしれない。

嫌な気分にさせるかもしれない。

評価されるのも怖い。

だから、出てこようとしているものを、自分で押し戻してしまう。

話しているうちに、ご本人自身がハッとされました。

以前、ある画家の大家に会ったとき、

「ものすごくオーラが強くて、私もそうなりたい」

と話していたことがあったそうです。

それを聞きながら、僕自身の中でも何かがつながりました。

それまで、この方の身体に現れるねじれを、どこかで「治すべきもの」として見ていた。

でも、本当にそうなのだろうか。

もしかしたら、このねじれそのものが、僕がまだ見ていなかった何かをずっと表していたのではないか。

そこで出てきた言葉が、

「蓋をしている」

でした。

表現したい。

でも怖い。

外へ出したい。

でも、周囲からどう見られるかを考えて押し戻す。

身体の中から出ようとしているものを、もう一度身体の中へ閉じ込める。

その言葉をご本人に伝えると、とても響いたようでした。

私にも、その方にも、それまで別々に見えていたものが、一つにつながったように感じられました。

そしてセッションが終わったあと、もう一度身体を確認しました。

背中にあったねじれ。

硬さ。

左側の詰まり。

それらが、すっきりと解けていました。

身体が柔らかくなっていたのです。

僕はその変化を見ながら、むしろ自分自身が教えられたような気がしました。

私がねじれを治したのではない。

少なくとも、それだけでは説明できない。

その人が話す。

私が観る。

Lifesが一つの観点を差し出す。

また言葉が生まれる。

本人が気づく。

そして身体が応答する。

その一連の出来事の中から、最初から持っていたわけではない理解が現れてきた。

治療とは、もしかしたらこういうものでもあるのかもしれません。

患者さんだけが変わるのではなかった

この経験で変わったのは、その方の身体だけではありませんでした。

私自身の「治療」というものの見方も変わりました。

治療家は、患者さんを診断する。

原因を見つける。

正しい状態へ戻す。

もちろん、それが必要な場面はあります。

けれど、それだけを握っていると、身体が目の前で表しているものを、逆に見失うことがあるのかもしれません。

私が「治す人」であり続けようとすることで、見えなくなっているものがある。

だから、ときには治療家である側が、自分の観点を手放してみる必要がある。

分からないまま、その人と一緒に観てみる。

すると、

患者さんの身体を僕が変える

という一方向の治療ではなく、

その人との出会いによって、僕の治療そのものまで変えられていく

ということが起こります。

今回のケースは、まさにそうでした。

病気の意味を決めない

以前よりも、病気や痛みに対して簡単に意味を決めたくなくなりました。

「この病気には、この意味があります」

と治療家が答えを与えてしまえば、それもまた一つの蓋になってしまうかもしれないからです。

病気をただ消すべきものと決めない。

だからといって、病気を何か特別なものと決めつけるわけでもない。

まず、その人と身体の前に立ってみる。

そして、

この命はいま、何を生きようとしているのだろう。

この身体には何が起きているのだろう。

この人自身は何を感じているのだろう。

私には何が見えていて、何がまだ見えていないのだろう。

そうやって一緒に観ていく。

その交わりの中から、本人にも私にも、それまでなかった観点が生まれることがあります。

「治す」から「共に観る」へ

だから今、私にとってLifesと治療が交わる場所は、

「病気の本当の原因を当てる場所」

ではありません。

もっと動いている場所です。

身体を観る。

Lifesを観る。

その人の言葉を聴く。

また身体へ戻る。

私自身の思い込みにも気づく。

そこからまた対話する。

その往復の中で、身体、心、人生、そして治療する側とされる側という分け方までが、少しずつ違う形でつながっていく。

今回、その結果として身体のねじれが解けました。

でも私にとって大きかったのは、それ以上に、

「治療とは何なのか」を、僕自身がもう一度問い直すことになったことでした。

私は治療家です。

だから、身体を整える技術を磨き続けます。

でも同時に、

「治療家だから分かっている」

という位置には留まりたくない。

目の前の一人の人間と出会うたびに、自分が持っている答えをいったん差し出して、その場から教えられる治療家でありたい。

病気を人生から切り離さない。

身体を魂から切り離さない。

そして患者さんを、自分自身から切り離さない。

Lifesという魂の設計図と、治療家として身体を観ること。

その二つが交わることで、

その人を治すだけではなく、その人との出会いによって、私自身の治療もまた育てられていく。

いま、そこにLifesを治療で使う大きな意味を感じています。