キリンジ 「恋の祭典」 考 | 靴底のブルース

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ついて出る言葉は、放たれて意味へ急ぐ・・・

キリンジのディスコグラフィーの中でも、
裏名盤的なあじわいのアルバム、
「47'45”」。


そして、
「47'45”」の中でも、
その流麗さでもって、僕を虜にしてくれるのが、
以前「考」した「耳をうずめて」であり、
今回「考」する「恋の祭典」であり、
ます。


仮に、
流麗さが、米だとして、
それが例えば厳選されたコシヒカリだとして、
それだけでもおいしく飯食えるのに、
わさわざ、お取り寄せの高級「フリカケ」をかけて出してくれるのが、
キリンジの流儀なのです。
いや、
キメの細かい、高級「とろろ昆布」をふんわり載せて出してくれるのが、
キリンジの流儀なのです。

例えば、
この曲でいうなら、
“夏のミサイル”
“浜辺で姿を消す”
“マスゲーム”
などか、上術「とろろ昆布」にあたり、
ます。


かといって、
俗に「北」と称される、
かの国の政癖を連想させる言葉が、
並びたてまつられてますが、
その線だけで、
この曲の意味合いを捜索すると、
答えは姿を消してしまい、
ます。
カトちゃんペ、て。

ここは、
それらの語を、“比喩”あるいは“隠語”
と捕えるのが適当なのかもしれません。

というわけで、
初心に帰るべく、
振り出しにもどり、
タイトルの意味を考えてみたいと思い、
ます。

「恋の祭典」
リピートアフタミッ!
「恋の祭典」
は~い。

一見、
しっくりシンプルなタイトルですが、
よくよく考えると、
「恋」と「祭典」は、
全くもって相容れない関係な気がするのです。


そもそも「恋」というものは、
当事者にしかわかり得ない、
秘めたるもの、密やかなものであり、
「祭典」という公けな展開で表現されるものではない、
と思うのです。

また、
ここで、「祭典」、
シンプルに「祭」という言葉についても考えてみたいと思い、
ます。

祭のメインイベントである、
「儀式」とは、
形態は様々ですが、
大体が過去のいわれにちなんだ「演技」であり、
もっというと「真似ごと」なわけです。

つまり、
「恋の祭典」とは「恋の真似ごと」
に他ならないのではないか…
と、まあ、思ったわけなのです。


曲冒頭、
“あけすけな愛の歌が夜の街を~”
と出てくる点と、
上述の流れに沿って、想像を巡らすと、
この曲は、夜の街で繰り広げられる
「恋の真似ごとあれこれ」
について歌っている曲に聴こえなくもないの、
です。

となると、
当初耳についた「北」を匂わす言葉は、
「恋の真似ごと」に出てくる登場人物や事象を、
比喩した言葉と考えられなくもないの、
です。


語弊がありそうで、あれなん、
ですが、
例えば…
手だれを手玉にとり乗り継いできた「女」”
は、
“あれこれちらつかせ、先進国を手玉にとって存命する某「北」”
を連想させ、
ます。


つまり、この曲は、
夜の街で繰り広げられるの男女の恋の真似ごと、
もっと具体的にいうなら、
一見老獪な男達を手玉にとる、
一見か弱いけど…な女達を描いた曲なのかもしれないなぁ、
そんな風に思ったの、
です。
一見か弱いけど…な女達て
WHO?
それ以上は、察してください。
具体的には差し控え、
ます。




で、
かといって、
作者である兄樹は、
そうした光景を決して批判してるわけでもなく、
“人ってそんなもんだよね~”
と、ある種、落語的に、
語りべ、に徹している、
そんな気がし、
ます。


恋の真似ごとは、
マスはマスでも
所詮マスな“マス・ゲーム”であり、
“輪投げ”やってるようなもんだよね?
とでもいわれてるような…。
そんな感触。

つか、
そういう意味では、
当ブログのキリンジ「考」自体、
“マスゲーム”
であり
“輪投げ”
な気がしないでもない…?

ですよねぇ…!?
ねぇ マスター


以上、
何処へでもおイキ~ていわれても、
イクあてがないので、ここにカキました。
性懲りなくてすみません。
 
 



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