己の探求心の為に人を求めるなど自分勝手でしかない。
見るのは自由だろう。思うのは自由だろう。
ならば刮目し見極めろ。
それが今の俺にできること。
それしかできない。
何を得ようとした。何を期待した。
それさえもわからない。
単なる情。
それ以上でも以下でもないのか。
ならばそれだけで十分では。
叶うことを期待しているのか。
求められることを期待しているのか。
いいや、それが望むべくものではないことは理解している。
必要とされないことは悲しい。
それは、より必要とされるために変わる原動力になるか。
なりうる。
じゃあ、なにを、どこへ?
この現状では、いずれ立ち去る運命。
まだ、繋ぎとめておきたい。
いつ途切れるかわからないこの細い糸を。
だから望まれてないんだって。
むしろ迷惑なんじゃないか。
おとなしくしてろよ。
たとえ立場が、性別が変わったとしても、
結果は変わらなかったさ。
そう思うならいっそ、
自分を騙して、必要とされるために変わる原動力として、
この思いを生かすか。
それは確かに特定の個人に向けてではなく、
いずれ多くの人に貢献できる要因になりうるだろう。
では、その先に自分が望んでいるものは?
必要とされる喜びの反面、
必要とされているのが自分自身ではないと自覚しているはず。
その虚しさを、違った形で埋めようとしたのではないのか。
その違った形は、求めて、求められなかった。
それを必要としているのは私自身だけだ。
あの子には必要のないものだろう。
きっと求めているのは同じ景色を見ている人間。
それは表層的な現実世界ではないもの。
その先、夢や理想、希望。
何に信念を持ち、持たないか。
まるで、同じ信仰のもとに生きているかのような。
構造を支える柱は互いに離れている。
それでいいから。
心だけは繋がっていれば。
それだけで、なんにでも立ち向かえるから。
一見してわからないほどの、深部での同化。
何と同化?
人?
想い?
構造?
真理?
人は不完全であることは理解している。
求めるものがそれならば。
人に求めるべきではないし、
まるで神に仕えるかのように、
自らの信念に殉教すべきだ。
では、今その殉教すべき信念は何か。
いわゆる愛と呼ばれる類だとは理解している。
常に問うべきは「今、愛ならどうするか」
愛ならば。
愛ならば、私は私でなくていい。
愛そのものになれるのなら。
私は私を捨てられる。
もう、自らが求められないからと言って嘆かなくていい。
私自身が愛そのものなら、
そこに不足も悲しみも不安も不信もないから。
永遠たる供給源。
溢れ出す源泉。
そこまで分かっていてなお、
私は私自身の現実世界で求められる要求に応じなければならない。
それは、愛の形そのものを示していない。
あらゆる矛盾、妥協。
そして何より、時には嫌われ、無関心でいなければいけない。
私が愛そのものでいられる場所はどこだ。
より高い理想を、信念を得られる場所はどこだ。
共に戦う仲間を得られる場所はどこだ。
改めて問う。
あえて人として人を愛したいと思うか。
私は人か、概念か。
どちらとして生きるのか。
まだ答えはでないな。
むしろ恐らく概念として生きようとして、
結果、人として生きることの喜びを求めた。
本当に、誰にも触れられないただの存在として生きられるのか。
答えはきっとNoだろう。
では一体だれが、この問答に応えてくれる?
また探求の日々に戻るしかない。
ただ、忘れたくないな。
気づきを、きっかけをくれた人を。
最善の愛を表現したいと願った人を。
灯を、与えてくれた人を。
灯よ、どうかこの心の中で息づき続けてくれ。
私が、再び見失うことのないように。