- やっと入手したイヤホンマイク。
SOFTBANKから販売している専用イヤホンマイクは、どこを見ても品切れの様子ですね・・・。
家電量販店の方に対応確認済みと紹介されたのが、エレコム製のイヤホンマイクでした。
意外と安い。
動作は問題なく、着信はマイクのあるところのボタンを押すと受ける事ができます。
裏側にクリップがついているので、シャツやネクタイに付ける事ができます。
ネクタイのやや下のほうに付けて、普通の声量で話をしても、問題なく聞こえるようです。
ミュージックプレーヤーにも対応しているようで、再生/一時停止もボタンで操作可能。
次の曲へ変える時等は画面での操作が必要です。
「音楽を聴くのに片耳じゃちょっとな・・・」
と思い、一緒に案内してもらった両耳のイヤホンはこちら。
こちらは、あくまでイヤホンのみでした。
両耳型のイヤホンマイクはまだ販売されていないようですね。
適時差し替えが必要ですが、音質はさすがオーディオテクニカ。
小型ながら重低音も十分に出力してくれます。
両方とも、耳の穴のサイズに合わせられるよう、4つのオプションのゴムがつけられています。
密閉型では最近多いですね。
両方とも購入しましたが、やはり差し替えは面倒で・・・。
片耳のイヤホンマイクでも、音は十分にいいので、そちらのみ使っています。
運転中や家事の最中の着信に対応するには、かなりありがたいですね。
もっとも、画面を見ないと相手が誰からの着信かは分からないので、着信音の設定で区別したほうがいいですけれど。
しかし・・・。
これをありがたいと思うほどには、何かと暇がない実状。
昔は、こういったものを単に「格好いい」とか「ハイテク(死語?)」と感じて好むだけでしたけど、
実用レベルで必要になる日がくるとは・・・。
ゆっくり、それこそ電話ではなく対面で、語り合うような時間がほしいと思う反面、
電話を持っているこの手で、その間も何かをしていたいと思う場面もあります。
そこを埋める為の道具ではありますが、
そこに、落ち着きのなさに複雑な思いをもつのは、私だけでしょうか・・・。
なぜか、ふとこの間「死」を思って、恐怖した。
東北地震のこともあってだろうか。
今感じているもの、得ているもの。
当たり前の事が、当たり前でなくなる瞬間。
よく、人は死者も人格があることを前提に話をするが、
必ずしも、死後も個体としての意識を保っているとは限らない。
例えば、死後もいわゆる幽霊となって、どこかを思うままにさまよえるのなら、
それはそれで、あまり恐怖ではないように思える。
なぜなら自我があり、生前と変わったのは肉体に伴う能力を失っただけ。
ならば、それはそれなりに、見聞を広め、理解を深めるという行為自体を、生前と同じように行うのだろうから。
だが、恐れたのは自我の消失。
私が私でなくなること。
今、当たり前のように何かを感じ、何かを得ている自分自身が、
自我があって当たり前と思っている自分が、
自我を消失するとはどういうことだろうか。
言葉で伝える事が難しいが、
私が想像したものを伝えればいいだろうか。
私がいつか死んだ時、
私は記憶をなくし、何も覚えていない。
今の私が経験していることも忘れ、今の私が知っている人も知らない。
私という自我は、そこにまた生まれるのだろうか。
何もかもリセットされて。
それはどう考えても今の「私」ではないが、
その私は、「私は私」と思っているだろうし、
今ここにいる「私」も「私は私」と思っている。
・・・生まれてきて数十年、得てきた何もかもを捨てて、そこに生まれ変わるのか。
ともすれば、また同じ過ちを繰り返す。そこに何の進歩もない。
・・・酷く、愚かで無意味だと感じてしまった。
そして、仮に、私が死後、自我を持たないとするなら。
少なからず、「今の私」は消失するだろう。
今、ここにいる私は、いずれ、なくなる。
私が消える。
消えたら、私はどうなる?
客観視してこそ、「消える」という現象は理解できる。
だが、「私」が消えると・・・?
おかしな話でもあるが、その瞬間、私は「私」が消えたことを知ることはないだろう。
もう、存在しないのだから。
そして、気がつけば、かつて「私」であったものは、
何もかもをリセットされ、また生きるのだろうか。
それはもう、私ではないだろう。
ならば、「今の私」はどこへ行く?
それすらも、分からない。
願うのは、
ただ、無意味に生死を繰り返す存在であってほしくないということ。
今は分からないが、なんらかの理由があって変化していくものだということ。
それも、前向きに。
そうでなければ、報われないだろう?
こういう事を考えると、日常の感覚が狂う。
自分の影を見て、自分の影だと思えなかった。
家を外から見たとき、そこには、普通にいつも通り生活している、私でない私が存在するのではないかと思った。
滑稽な想像かもしれないが、それは不可解な、すっきりとしない恐怖のまま残った。
ふと、素の自分に戻る。
静かに、でも切に思うこと。
人間関係に疲れている。
小規模の人数と関わる事は楽かもしれない。
でも、その中でうまくいかなければ、そこにたちまち居場所はなくなる。
大規模な人数と関わるのであればそれは軽減されるが、
それもまた、様々な人の思惑の渦中に自らを投じることとなる。
時代錯誤だろうか。
皆が皆、成功だの、利益だのと眼をギラつかせ、
人を、物を、金を動かす事に必死になり、
思い通りにならない事や人とは徹底してぶつかり合う。
私は、正直、そこにいたくないのだ。
少し前までは、その渦中にあってなお、
自らの信念を貫き通す事が、自己表現だと思っていた。
今も、それを否定するつもりはないにせよ、
心が本当に求めているものとは別ではないかとも思うようになった。
人が求めている幸せとは、昔からこれほど遠いものだっただろうか。
そうまでしなければ生き残れない、それが今の時代だというのか。
それ以外に、生きる術はないのだろうか。
責任あるものとして。
男として。
人として。
「あるべき姿」は確かにあっても、そこに至る道は険しい。
それは例え人とぶつかっても、成すべきことなのだろうか。
人それぞれ、思い思いの「幸せ」があって、それを求めるのなら、ぶつかるのが必然だろうか。
十分に自分の「役割」を果たすには、犠牲が伴う気がしてならない。
人間関係は利害の一致となり、
物も機能重視となる。
きっと、それはその先にある「幸せ」の為の手段でしかない。
だから、手段に幸福は求めるべきではない、それが答えだろうか。
そしてなにより、走ることを選んだ者は、
走り続けることでしか評価されないのではないか。
気付けば時間が経ち、立ち止まるべき場所を過ぎ、何もない先にたどり着いてしまうのではないか。
そう考えると、前に進めなくなってしまう。
だからだろうか。
私は、孤独でもいい、一人で地道に遂行できる仕事を好む。
特に、今の私は。
とある女性とのぶつかりによって、人の想いに敏感になり、
そのアンテナが周囲へと向かったとき、その想いの多さに、強さに向き合っては、
自分の心を試された。
今の私は思う。
そこまで皆が皆、自らを貫き通したいと望むのなら。
私は、速やかに道を譲ろうと。
妨げになど、なりたくもない。
だからどうぞ、行って下さい。
私自身も、痛い思いはしたくないので。
そうして私は、一時的にせよ、人脈を捨て、技術を求める。
今一度人と向き合う機会がいずれ訪れるにせよ、
技術はあったほうが望ましい。
そして、技術は裏切らないから。
気が変わることも、裏も表も、負の感情も、ない。
だから。
人は、理解できないものを恐怖し、攻撃する。
不安ゆえに。
私自身が、自己開示をしなければならない事も理解は出来る。
ただ、もう触れられたくないのだ。
私の心など、ないものだと思ってくれたほうがずっといい。
だから静かに。静かに、いさせてほしいと願う。
そう願った先に、孤独と引き換えに手に入れた自由がある。
私にとっては、貪欲に求めた地位や金に換えがたい価値のあるもの。
傍にいる人は、一人で十分なのだ。
あるいは、思惑を持たない、「今」を生きる人。
そして思い出す。
あの子が言った言葉。
「大切な人がいようが、いまいが、人はいずれ一人になります」
突き刺さった言葉。
良しにせよ、悪しきにせよ、受け止めざるを得ない私。
「たとえいつか一人になるとしても、今は・・・」
そう言ったあの時の私の声は、あの子に残っているだろうか。
そして今、私が過去の私の言葉の責任を持つとして。
私は、ただ利害のために、未来のためにと今を犠牲にする人達より、
純粋に「今」を楽しんでいる人とより関わってみたいと思う。
さらに過去、その考えを否定した私が。
愚かだ。
かつて捨てた世界を、今度は求めるなどと。
それでも例えば、一つの家庭をつくるという幸せを望むのなら。
当然、様々な人との関わりの中にあり、自らの表現を続けなければならない。
それでも、今を楽しむことを忘れてはならない。
なかなかに難しいバランスだと思う。
現状でさえ、時間が足りないと嘆いている私に、
今を楽しむ術をこれ以上持つ事が出来ない気さえするのに。
それでも、欲張りを言わせてもらえるのなら、
利害でも、未来のためでもなく、
ただ、今を楽しむ事を目的とした関わりの中に、自らを投じる時間が欲しい。