It colors of one day -3ページ目

It colors of one day

( ゜Д゜)y─┛~~

異国を知るのに異国に行くより、

異国の文化を持つ人と過ごすほうがよいように思う。

 

とある神は隣人を愛せという。

また、同じ神に二人の生涯の愛を誓う。

この愛は同じものか?

様々な愛の形があるとすれば、

それによって様々な人を愛することは何ら不思議ではない。

 

予め定められた運命があるとすれば、

私たちの選択は何ら意味を持たない。

もしも、私の人生が運命によって束縛されるのであれば、

それは私自身の選択の結果であり、

決していたずらで傲慢な運命とやらの生み出すものではない。

どちらにせよ運命とやらを恨むのなら、

自らにコントロールできないものを、

何かのせいにしてしまわなければ納得できないのであれば。

嘆き打ちひしがれる合間も惜しんで抗うべきだ。

 

この時、形あるものに囚われるな。

人も場所も、時間さえも。

 

たった一つだと思えるそれは、

本当に自身の「所有物」となりうるのか。

答えはNOだ。

 

その輝かしい人、場所、時間は、

手に入れたと思えば変容し日常と化し、

手に入らなければ偶像と化し時に自らを苦しめる。

 

すなわち、実体のないものを所有しようとする行為であり、

その根源は自らの心の裡にある。

 

 

例を挙げよう。

よく、恋愛において「俺のものになれ」「あなたのものよ」などといった甘い言葉がある。

本当に、人が「もの」となるか。

NOだ。

 

人は外見から趣味趣向、言動から価値観に至るまで、

特定の人物の望むがままになるという芸当を、

そう簡単に成せるものではない。

 

その変化を受け入れ、愉しみ、愛することができるのなら。

それは一つの愛の形であり、いわゆる「生涯の愛」と言えるだろう。

 

しかし、それらの中に見出した「何か」が、

変わらないことを望むのであれば、

それは変化する対象とは分離して、

その「属性そのもの」を追求すべきだ。

 

分かりやすい例でいうと、人の顔の美しさ。

その顔が、幼い屈託のない笑顔を携えた頃から、

苦楽を味わい始めた青年期に至り、

落ち着きと貫録を見せ始める壮年期、

そしてしわが増え骨ばった装いを見せる老年期まで。

 

どれか特定の時期だけを愛したいのであれば、

それはその人自身ではなく、その「属性」を愛している。

 

本当にその属性を心から愛するのであれば、

それは人に求めず一つの芸術として探求すべきだろう。

 

それも対象と観測者の間に生まれた一つの「美」の表現であり、

それ自体は否定される理由はなく、

一般的な芸術的表現方法によって再現することで、

同じ眼を持つ観測者にとって共感できるものとなるだろう。

 

それぞれ一つの方向性であり、

どちらも間違ってはいないが、

追求する矛先を誤れば、過ちに至る。

 

 

大切に思う理由は私の都合で、

大切にしたいと願う気持ちは私のエゴで。

 

だからきっと、君には関係のないことだろう。

 

何もかも、ただ「必要ない」その一言によってかき消される。

それが例えどんなに純粋で、真摯な愛情であっても、

相手にとって必要なければ、

その気持ち自体がもはや迷惑なのだ。

表現の、問題ではない。

 

もしも、いつかそれを受け入れてくれる時が来るとしたら。

私は、それ相応の人間足りえるだろうか。

 

もしも、その時が来るのなら。

今は、その時の為に生きていたい。

 

決して、すがるわけではなく、

私は私としての尊厳の為にこそ。

 

どこまでいってもエゴだとしても。

その関係は、きっと互いにとってプラスになる。

そう信じられるから。

どんなに辛くても、

それ以上に手放すことが辛い。

だから、思い出させてくれたこと、

気付かせてくれたこと、

見つけてくれたこと、

与えてくれたこと、

忘れはしない。

 

 

この縁が切れてしまえば絶対に後悔する。

そう予測ができている。

それでも行動を起こすことを躊躇う。

 

躊躇うのは、行動の結果、意図した方向性に進まなかった時に、

余計に後悔すると理解しているからだ。

 

元々、人の心など予測できない。

だが今は、強く望む事があるから、失敗を恐れる。

たった一人の人の心を動かすことを躊躇う。

 

勘違いするな、人の心など操作できない。

他の人とは、もとよりそのつもりで関わってきたはず。

望む望まないに関わらず、今も昔も、

人の心が操作できないことに変わりはない。

期待せず、言葉をかけ、

どう受け止めるかは相手に委ねるしかない。

 

落ち着いて考えてみても、立場が、性別が友人を作る妨げになるとは思わない。

 

どこまで親しくなれるかは別としても、いい友達になれると信じている。

 

 

最近何かと衝突が多い。

ぶつかることは悪いことではない、その言葉が救い。

 

やはり人それぞれの考え方がある以上、それは避けて通れないのだろう。

可能なら、避けて通った道。

 

こういう時、人と関わるのは面倒だと思ってしまう。

だが、人との関わりをやめるわけにはいかない。

 

面倒な人はいる。だがそれが全てではないし、

考え方自体が間違っていないこともある。

ただ、それが総合的に、時期や規模、方法が異なるだけなのだ。

 

相対的に見れば些細なこと。

でも、その歯車がかみ合わなかったことは、

しばらく「しこり」として残ってしまうのだろう。

 

それを、今すぐはできなくても、いずれ解いてゆくのが、

「最後の受け皿」としての私の役目。

 

喜ばれる時が来るまで、

私はこの場所にいられるだろうか。

 

時に憎まれなければならない。

その辛さを承知していたとはいえ。

 

自らの中に信念を打ち立てておかなければ、

直ちに自身を悪として断じてしまいたくなる中。

 

叩かれ、切りつけられたとしても、

今はまだ、立っていなければいけない。