異国を知るのに異国に行くより、
異国の文化を持つ人と過ごすほうがよいように思う。
とある神は隣人を愛せという。
また、同じ神に二人の生涯の愛を誓う。
この愛は同じものか?
様々な愛の形があるとすれば、
それによって様々な人を愛することは何ら不思議ではない。
予め定められた運命があるとすれば、
私たちの選択は何ら意味を持たない。
もしも、私の人生が運命によって束縛されるのであれば、
それは私自身の選択の結果であり、
決していたずらで傲慢な運命とやらの生み出すものではない。
どちらにせよ運命とやらを恨むのなら、
自らにコントロールできないものを、
何かのせいにしてしまわなければ納得できないのであれば。
嘆き打ちひしがれる合間も惜しんで抗うべきだ。
この時、形あるものに囚われるな。
人も場所も、時間さえも。
たった一つだと思えるそれは、
本当に自身の「所有物」となりうるのか。
答えはNOだ。
その輝かしい人、場所、時間は、
手に入れたと思えば変容し日常と化し、
手に入らなければ偶像と化し時に自らを苦しめる。
すなわち、実体のないものを所有しようとする行為であり、
その根源は自らの心の裡にある。
例を挙げよう。
よく、恋愛において「俺のものになれ」「あなたのものよ」などといった甘い言葉がある。
本当に、人が「もの」となるか。
NOだ。
人は外見から趣味趣向、言動から価値観に至るまで、
特定の人物の望むがままになるという芸当を、
そう簡単に成せるものではない。
その変化を受け入れ、愉しみ、愛することができるのなら。
それは一つの愛の形であり、いわゆる「生涯の愛」と言えるだろう。
しかし、それらの中に見出した「何か」が、
変わらないことを望むのであれば、
それは変化する対象とは分離して、
その「属性そのもの」を追求すべきだ。
分かりやすい例でいうと、人の顔の美しさ。
その顔が、幼い屈託のない笑顔を携えた頃から、
苦楽を味わい始めた青年期に至り、
落ち着きと貫録を見せ始める壮年期、
そしてしわが増え骨ばった装いを見せる老年期まで。
どれか特定の時期だけを愛したいのであれば、
それはその人自身ではなく、その「属性」を愛している。
本当にその属性を心から愛するのであれば、
それは人に求めず一つの芸術として探求すべきだろう。
それも対象と観測者の間に生まれた一つの「美」の表現であり、
それ自体は否定される理由はなく、
一般的な芸術的表現方法によって再現することで、
同じ眼を持つ観測者にとって共感できるものとなるだろう。
それぞれ一つの方向性であり、
どちらも間違ってはいないが、
追求する矛先を誤れば、過ちに至る。