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It colors of one day

( ゜Д゜)y─┛~~

少しずつ明らかになっていく。

自問自答で得ることができなかった答え。

いくつもの確信が、ひとつの方向性を明らかに指し示す。

 

今、この人と親しくなりたい。

 

明らかに違うところ、似ているところ、

それぞれを内包しているという事実を踏まえて、

なお、同じ山を登ろうとしているような感覚。

 

そして、その道のりがただ孤独に険しいものではなく、

共に歩むことで楽しく、より深い学びが得られるであろうという期待。

 

 

楽しみを分かち合う親友のようでもあり、

嫉妬すべきライバルのようでもある。

 

本当にこの感覚が久しいと思うのは、

幼少のころ競い合う中で足の引っ張り合いになったことをきっかけに、

競争というもの自体を、今まで避けてきたからだろう。

 

一位になることが大事なのではない。

経験の中でより多くを学ぶこと、

個々の違いを認め、相互理解を深めること、

その結果、一人で戦うよりもずっと、

良い経験と高い成果を生み出すこと。

 

それが同じフィールドでなくてもいい。

互いの経験が、各々の形へ変換、吸収され、

各々の成果へとフィードバックされればよい。

 

異なるフィールドでは無変換のまま流用できる経験は少ない。

しかし、そこに気づきを得ようとする意識と、

本質を理解する洞察力があれば、

むしろそれは斬新な角度からの切り口となり得る。

 

これらを期待できる親友が得られるならば、

それは私にとって奇跡に近い出会いであり、

生涯大切にすべき関係と言える。

 

願わくばそれが相手にとっても同じでありたい。

 

明らかに、見えるヴィジョンが圧倒的に多い。

多数の可能性、具体性。

そしてそのプロセスでの膨大な気づき。

 

本当に、ここまでワクワクしたのは久しぶりだ。

しかも、泡沫のようなものではなく、

長期的かつ確かな感覚をもつ確信といえるレベル。

 

それは圧倒的過ぎて、何をしようか時に迷い、

何でもできるかのような錯覚さえも生み出す。

しかし決して妄信ではなく、

確かな源泉を得て力が沸き立つような感覚。

 

これはきっと、今後も長く留まり、

ともすれば生涯忘れられない経験となるだろう。

 

本来これがただ孤独に、

一人でも迷わず歩んでいけるのならば、

あるいは心の友として、自らの中にその存在を維持できれば、

決して親友として実質的にとどめておく必要はないのかもしれない。

 

ひょっとしたらそれが、

互いにとって最も負荷のかからない方法かもしれない。

 

しかし、今は「まだ分からない点がたくさんある」し、

「もっと知りたいと願う」し、

「その存在を自らの中に長く留めておくことが難しい」。

そして何より、「互いに楽しみ、笑い合うことは、一人ではできない」。

 

これらが満たされる可能性があるならば、

それに越したことはない。

 

人を信じることで、ふっと消える苦悩がある。

不安、疑念、不信。

 

それらすべて受け入れ、

そのうえでなお、信じること。

 

何度傷つけられても、

忘れられない、忘れてはいけないことがそこにある。

 

そうだ、私は誰にも傷つけられない。

何も不足はしていない。

それが本来の姿だ。

 

だから、あるがままに生き、

人を愛することをやめない。

自分の心に素直に、

言いたいことをいうのが美しいのだろうか。

それとも、相手を慮り、

適切な言葉とタイミングを選ぶことが美しいのだろうか。

 

双方を両立させる手段はあることを、

もう私は知っている。

 

それでも、そのバランスの難しさが、

安易な発言を妨げ、時にコミュニケーション不良に至ることもある。

 

私がすべての言葉を受け止める覚悟ができていても、

同じように相手にも投げかけてよいという理屈にはならない。

 

もしも自分の心に美醜があるとして、

醜いから隠そうとするその心は、

なぜそんなに醜く感じるのだろう。

 

人への配慮が足らないと思うから?

低俗な感情だと思うから?

私という社会的な人格や、第三者観点から適していないから?

 

こんなことに悩むのは、

自分自身が苦しいからだ。

 

色々なことを気にして、

他人から求められる人格になって、

人の世話をしていたら、

「私」がどこかわからなくなった。

 

不思議とそれは「無」に至り、

生きていながら死んでいるような、

心地いいような、空疎なような、

そんな感じだった。

 

私は、ある意味で、「普通の人」に拘りはなく、

たった一つの純粋な意志だけ備えた、

ただの「概念」でもよかった。

 

ただただ、私の体、心、精神すべてが、

たった一つの目的の為に存在する、

「器」でよかった。

 

そうすれば、悩まず、迷わず、苦しまず、

目的だけを見て歩いて行けたから。

 

なのになぜ、今それをあえて変え、

悩み、迷い、苦しむことを望むのか。

そうまでして、失いたくないと思ったものはなんだ?

 

自我か、希望か、目標か、

それとも他に代えられない誰かか。

 

何となくわかるのは、この歩みは、

これまで歩んできた道を否定し、

全く異なる方向性を指し示すのではなく、

現状の方向性の補正、

そして新たな視野の獲得という表現が適切だろう。

 

現実的には大きな変化が伴う可能性はあるが、

それは単に、目的のための手段でしかない。

 

不安はある。

それでもそのリスクは、

その先に見える光景にたどり着けるのなら、

きっと乗り越えられる。

 

 

形あるものを手に入れたとき、
形ないものはそこにないと気づく。

形あるものを失ったとき、
形ないものがそこにあると気づく。

形あるものは振り返るためのもので、
形ないものは歩いていくためのもの。

形あるものは見失い難いが、
形ないものは見失い易い。
 

 

 

童のときには恐れを知らず、

欲求も、疑問もただ真っすぐだった。

 

歳をとったことがただ、

それを表現できなくなったというデメリットだけにしたくはない。

 

あらゆる表現において、

人への影響に配慮しながら、

それでもなお、どうしても伝えたいことは伝えなければならない。

 

ただただ配慮するあまり口を閉ざし、

意図が伝わらないことは避けなければならない。

 

表現は、時に誰かを傷つけることに、覚悟を持つ必要がある。

それが表現者の責任ともいえる。

 

そのうえで、自らの表現が他人にどう影響を与えるかは、

実際に表現してみなければ分からない。

 

つまり、未熟と理解していながらも、

それを試す場が必要だということだ。

 

考えてみれば、大抵の人はそれをある程度の推測の元行っていて、

100%相手を傷つけない保証はどこにもないことも多い。

 

一般的な、社会とのコミュニケーションによって、可能な限りそれを回避する方法を、成人するまでに身に着けるのが普通ではあるものの、不運にも、表現すること自体を恐れてしまうほど決定的な経験によって、ともすれば表現すること自体に消極的になってしまうことがある。

 

しかし本来表現は意思疎通の手段でもあり、他者理解を得るためには必要不可欠なものである。

 

いかなる人物であろうとも、表現が少なければ「何を考えているか分からない」と評されることは避けられず、それは更なるコミュニケーション不良を引き起こす。

 

つまり、悪循環である。

 

比較的、欧米文化では率直的な表現が好まれるが、日本文化の中では「空気」つまり具体的な表現がない中で察する能力が問われる傾向にあり、これは悪い側面で言えば「表現に対する消極性」「顔色伺い」

になる。

 

表現に対し自信がない、実力がない人物が、これら日本文化の中ではさらに悪い側面が助長し、ともすれば「空気を読まない人間」と評されてしまう場面は少なくないように思う。

 

もちろん、日本人全てがそうではないし、適度な許容力のあるコミュニティに属していれば、そのうち表現に対する不安は解消されるだろう。

 

しかしこれまた不運にも、環境にも恵まれず、表現に対する不安を払しょくできず成人、そのまま年齢を重ねる人間は少なくないように思う。

 

だが、そういった表現に対して不安を持つ人物であっても、当然ながらその人自身しか持ちえない「味」というものはあり、必ず「個性」はあるはずだ。

 

社会に広く認められるためには様々な関門を通らなければならないが、多少未熟な表現であっても、それに賛同し奨励してくれる人たちはいる。

 

そのような機会が与えられるよう、社会はその場を設けるべきだし、そういった点でSNSは実に有意義ともいえる。

 

最も避けるべきは、上記のような表現に対する不安によって、表現自体が行われないことであり、それを回避するためであれば、SNSを転々とし、自分に合ったコミュニティを探すことも大いに歓迎したい。

 

少し留意すべき点があるとすれば、悪意は捨て、謙虚であること。

そこには、今できる最大限でいいから、配慮することだけだ。

 

 

私が、この記事が、Amebaがそうであるように、

人にはどこかで表現する場所が必要なのだ。

 

私のように、なんだかんだで自分勝手に振る舞う人間はまだいい。

 

時折見かける、自分の表現を押し殺し、行き場を失ったように見える人物。

そのような人たちを見ると、私まで胸を締め付けられてしまう。

 

貴方の言いたいことは何?

どうしてほしい?どうしたい?

何を求めて、何を嫌っている?

どうなりたい?

 

本当はそこに輝く個性の原石があるはずなのに、

すっかり隠れてしまって、見えない。

 

隙間から見える微かな光に気付いた時、

その原石の姿を、もっと見てみたいと願う。

 

それが私にとっての喜びであり、

貴方にとっての救いとなるように。