自分の経験をブログに綴ってよかったことは、
俯瞰して自分とその周辺を観察できたことです。

ずっと、「Oとたまこさんは愛し合っていたけれど結ばれなかった。それは私がいたからだ。私はOに選ばれなかったのに妻の座に居座った図々しい女だ」という見方に捉われていました。

でも、ブログを読み返せば、妻に押し掛けて来られてバスルームに逃げなければいけない滑稽な愛なんて、全然羨ましくない。

Oのことを美化していた私は、Oの言動一つ一つをまともに受けとりすぎて一喜一憂していたけれど、改めて読んでみると矛盾だらけで一貫性に欠けることがよくわかります。

居座ったと言っても、私はただそこにいただけです。Oは口先だけで何のアクションも起こさなかったのです。さまざまなモラハラ言動は私をおとなしくさせるための脅しであり、仕事のこともそうですが、私がその脅しに屈しなければいいのです。(Oの暴言は私のトラウマになっているので、実際はそんな簡単なものではありませんが)

たまこさんと同じ土俵に上がる必要はなかったのですね。私は勝手に土俵に上がり、勝手に膝をついて負けた気分になっていました。

家庭ではOのお母さんの意見を絶対的なもののように感じて、悪いのは私でOが被害者みたいに思っていましたが、ブログを読んだ皆さんから、おかしいのはOとお母さんなのだと、コメントやメッセージで教えていただきました。

今はすっかりした気持ちです。

発覚したときのことを思い出すと今も辛いけれど、それは自分の意思で切り替えることができます。

例えば、私が苦しむことで、子どもたちや孫に降りかかるかもしれない災厄をなくしてもらえるなら、私は喜んで同じことをもう一度経験するでしょう。

いつかまた辛い気持ちになったら、今日の投稿を読み返します。