建築設計を志して、50年が過ぎたよくきかれんるのが、

何故建築設計者になろうとしたのかと、問われる。2つの理由をいう。

 

元は、機械エンジュニアに、なるのが幼いときの、夢だった、

それは当時の漫画の影響を受けた。

手塚治の鉄腕アトム、

横山光輝の、鉄人28号のなどの背景に出てくる町、

ロボット、そして未来都市の姿に憧れたことから、

中学を卒業して就職希望したのが、旋盤加工の会社であったが、どうやら、

 

朝鮮人の募集はしていないと、就職担当の教師から言われ、

君たちの場合は、土木関係か、在日が経営するゴム工場なら受け入れてくれると言われ

希望を、変えるようにと言う。

納得ができなかった。しかし、これはどうしようもないないとも言われ。

それほどまで言うなら、自分で探しなさいと。

 

卒業式の帰り、もらつた卒業証書を川に投げ捨てた、

責めてもの抗議のつもりだった。

その後、大工になろうと思った、

何故なら、幼い頃から、バラック建の朝鮮人集落の暮らしを、

中学二年までした事で、

劣悪な住居の環境を直せるのは

大工になれば出来ると思った単純な少年の思いからだった。

しかし、夜間高校で勉強したかったか、

親方が、職人になるなら、学校は邪魔になるから、

どちらかを選べと迫られて、学校を選んだ。

そして、いつしか、

目的も無くしてしまい、学校にも行かなくなって、直ぐに金になる、

神戸新開地の立ちんぼと言われる、日雇い労務者と、なった。

 

その日に金をもらい、その日に、使ってしまう。

未成年で酒も、タバコも覚え、やがて、ドヤ街の簡易旅館での暮らしを始めた。

学校はいかなかった、ある日、

担任の教師がわたしをドヤ街まで探しならきてくれた。

学校に出て来るようにと。しかし、行かなかった。もう、学歴や勉強などに何ら興味もなかった。

ある日、日雇い仕事で、その日会った、

在日コリアンの一世の父親と同年代の叔父さんと一緒に、現場片付けの仕事を、共にした。

仕事を終えて、新開地のドヤに戻り、屋台のホルモン焼きで共に酒を飲んだ。

「兄ちゃん、明日も、俺と組もうかと言う」。快く返事をした。

その日も同じ現場に二人で行った。

三宮の繁華街の飲み屋のビルの地下室の片付けの仕事だった。

 

上の階から、現場監督の声がする。叔父さんが、

朝鮮語訛りの日本語で、スイマシェンと何度も言いながら頭を下げていた。

そのとたん、かえって来た言葉は

「お前、○鮮人か、日本語わからんかったら、国帰れ」。と怒鳴る。

 

わたしはこの監督を鉄筋で殴ってやろうとしたが

その叔父さんからなだめられた。そして、

 

その監督を戒める人があらわれた、

 「君仕事している者に対して、そんなぞんざいな事を言うなど、許されない、君こそこの現場から出て行って貰う」。と言う。

救われた思いがした。

このビルを設計した建築士であるという。

 

その日、新開地に戻った。

叔父さんは、

「今日からお前は、酒などやめろ、

またこんな仕事もやめて、学校にもどれ、

俺たちの時代は教育がなかったから、

日本人からバカにされる。

お前たちがわれわれと同じ目にあってはならない」。と

父親のようにしてわたしは説教された。

翌る日、

学校に行って、復学する事を告げに行き、

建築士を目指す決意を決めるきっかけとなった。

 

居住環境が及ぼす人間形成は実に大きい事が今持って思う。

・・・

 

祖父の生まれ故郷、全羅北道南原市

19才の時、日本に渡ってきたと聞く、

福岡の飯塚炭鉱に入りあまりの過酷な労働と、

手配師と約束した賃金などが、一切払ってもらえず、

文句をいえば、殴る蹴るの暴行を受けたらしい。

 

一日、12時間労働だったらしい。

夜明け前に坑道に入る、出てくるときはとっぷりと日が暮れた。

同郷の者がいた、

二人で逃げようと、

計画し一月後、炭鉱の飯場から、夜中、交替の時間をかいまくぐり、逃げたのだが外は漆黒の闇で陽が昇りあたりを見渡せば、同じぼた山の周りをぐるぐる回っていたらしい。

 

そして、第一回目の脱走は失敗に終わり、

職長と言われる男たちにつかまってしまい、

二人ともリンチを受けて、

半殺しの状態にされたという。傷だらけの体に治療の薬もなく、

酔っぱらった見張りの男が、

「消毒してやると」。頭から小便を掛けられた。

この時の思い出を、

父には何度も話していたという。

 

我々孫には一切そんな話しはせずにに

「勉強をしっかりしなさい」とばかり言っていた。そして、

日本が悪いとか、日本が憎らしいなどの言葉も

祖父の口からはきいたことがなかったが、

息子の父には、朝鮮人としての誇りを持て、

民族の精神を持てと、

幼い時から、絶えず言っていたらしい。

 

おじいさんの物語、

前編はこちらです。

弘利さんのお話、

在日居住の歴史

神戸長田源平町・大橋FW 23.7.16・17

     資料2「米穀手帳」

 今から54年前.1969年の話である、中学を卒業し、進学することなく就職することになった。

学校の就職担当の教師から、

「来週の月曜日に、就職の面接に必要なので、区役所に行って

米穀手帳の証明をもらって来い」。と言われた。

 

はて、何のことかさっぱりわからない、早速、

長田区役所の外国人登録課に出向き、

米穀証明書をくださいと窓口に尋ねると、

担当の女がけらけらと笑う。

笑いが終わったところで

 

「あのね、あんたら朝鮮人には米穀手帳などない。

日本人だけのものや、あんたらは

外国人登録証だけしかないから、帰り」。と言いながら、隣の職員に

 

「この子な、朝鮮人のくせして、米穀手帳出せやて、ほんまに笑かすやろ」。

と言ってまたけらけら笑っている。

 

この窓口の係の女性は朝鮮人が多く住んでいるここ長田区役所では

有名な今でいえばヘイトスピーチの得意な女性であった。

外国人登録を外人登録と言った。

そして、

この登録の在留期限の切り替えなどを遅れた者には、

「日本に住みたかったら、切り替えを怠るな」。

「役所のいう事が聞けんようやったら、国に帰り」。

など日常平気で言っていた女性である。

 

でも、我々にとっては区役所の窓口とは、

まさに入管、

警察の一歩手前のところだと思っており、言われるがまま、

我慢するしかなかった時代である。

 

その、米穀手帳とやらを調べれば

、太平洋戦争から1982年まで

コメの配給を受けるのに必要であった通帳。

ゆえに戦後、在日朝鮮人は外国人となり、

手帳は交付されず

闇米を購入するしかなかった。そして

闇米を買った売ったで、朝鮮人は犯罪を犯す人種だと。

1969年に自主流通米が出回るようになって

金さえあれば米が買えるようになった。

 

差別と人権侵害の制度であったと、

今も非難されている。