フィリピンマニラ市にあった「日本軍性暴力の犠牲者女性を意味する像」が撤去されたと、東海テレビ(フジ系)で知りました。

「中国系団体」が作ったと報道されていましたが、フィリピンでは中国系の人も多く、それは特筆することではありません。大戦中に日本軍によって性暴力被害にあった女性たちにも、中国系の人も多かったでしょう。

中国系だけでない女性や、学校にいた少女も犠牲になりました。

「スパイを捜索する」という名目の暴力や拷問も、多かったのです。

大人たちが殺されると、家にいた少女が「慰安婦」として強姦されたのでした。

「群青さんのブログを転載させていただいております。

フィリピンでは「慰安婦問題」もあります。

強姦のあと、小学校保健室などを利用した「慰安所」に連れていかれ、何日も強姦された少女もいます。

 

[

何故、一般住民虐殺史実を記憶しなければならないか』の続きです。

(2)として、「マニラ戦とベィビューホテル事件」(2012年4月15日、林博史記)を、追記として再アップしておきます。

この林さんの歴史発掘は、一般住民の「虐殺」ではなくて、一般女性「集団強姦」です。

少し犯罪の性格が異なりますが、犯罪史実の具体例。

 

マニラ戦とベィビューホテル事件」2012年4月15日、林博史

(一部抜粋)  ※全文は、URLをクリックしてお読み下さい。

・・・ ファーガソン広場に集められた住民は、午後7時か8時ごろ、日本軍によって、男たちだけのグループと女性・子どもたちのグループに分けられた。男たちは、広場の周辺の家々に収容されたようであるが、女性と子どもたちは広場のすぐ北側にあるベイビューホテルに連れて行かれ、各部屋に20~30人ずつくらいに分けて入れられた。監禁された女性と子どもの全体の人数は、数百人と見られるが、よくわからない。ベイビューホテルの元経営者の証言によると、ここは約150室あるホテルで、10階ほどのビルだった(2-46)

 女性と子どものグループのなかから、若い女性たちだけ20数名が別に選別され、ベイビューホテルの南隣、ファーガソン広場に面しているコーヒーポットCoffee Potというレストランに連れて行かれた。そこには数人の日本軍将校と思われる軍人が酒を飲んでおり、彼女たちにもウィスキーを飲まようとした。そこで1時間ほどいた後、彼女たちもベイビューホテルの3階あたりの一室に監禁された。夜の9時ごろだったと見られる(この20数人の女性たちをコーヒーポット・グループと呼んでおきたい)。その部屋には家具はなく、床にマットレスだけがあったという。

 各部屋ともに明かりはなく、ホテルなのでバスルームはあったが水は出ない状態であり、いずれも真っ暗な部屋に何十人かが押し込められた状態だった。

 

・・・・  

Ⅱ 被害の実相

 ここで体験者の証言からベイビューホテルなどに監禁された女性たちに何がおこったのかを見ていこう。

 ファーガソン広場で選別され、コーヒーポットに連れて行かれた後、ベイビューホテルの一室に入れられた20数人のグループの体験から紹介しよう。

コーヒーポット・グループに入れられた14歳のイギリス人少女によると(1-9)、まず日本兵が「スペイン人、スペイン人」といいながら女性を連行していったという。そして「日本兵たちは少女の腕をつかまえ部屋から引きずり出していきました。○○は抵抗し床に転がりましたが、同じようにして、銃剣をつきつけて、連れ出されました。少女たちは泣き叫びながら、連れて行かないように嘆願しましたが、無視されました。」「私たちはとても怯え、できるだけ目を付けられないように努力しました。髪の毛を顔にたらして隠し、できるだけ部屋の隅にうずくまっていました」。

しかし彼女も日本兵によって引きずりだされて別に部屋に連れて行かれ、抵抗し叫ぶ彼女に平手打ちをくわえ、左手でのど元を押さえ、右手で剣を持ちのどに突きつけ、抵抗をあきらめさせたうえで強かんした。その後、部屋に放置された彼女は元の部屋にもどろうとするが、わからず別の部屋に入った。しかしその部屋にいたときにも、夜中に、日本兵によって抵抗する彼女の髪をつかんで床にたたきつけられ、最初に強かんされたときと同じ部屋に連行され、また強かんされた。翌朝、母が呼ぶ声が聞こえたので、母のいるダイニングルームへ逃げたという。

 コーヒーポット・グループには、彼女によると半分以上はフィリピン人だったが、ほかにイギリス、トルコ、スペイン、イタリアなどの女性たちも含まれていたという。また彼女の知っている限りでは、それらの女性たちの年齢は、11121214141415151516161617182223-42424252526歳だったという。この21人以外は知らない女性だったという。記憶に基づく証言なので年齢には若干の誤差があるかもしれないが、14歳の彼女とそれほど変わらない年齢の少女たちが多数含まれていたことは間違いない。

その姉で17歳のイギリス人少女も同じコーヒーポット・グループに入れられた(1-10)。その証言によると、自分は部屋の隅にひそんでいて幸運にも助かったが、部屋には13~4歳の少女がたくさんおり、「少女たちはみな泣き叫び、すすり泣き、悲鳴を上げ、多くは祈っていた」と語っている。

24歳のフィリピン人女性の証言によると(1-14)、まず3人の日本兵によって彼女の2人の姉妹が連行された。次に別の少女たちが連行され、その次にほかの少女と本人が連行された。彼女が連行された部屋には3人の日本兵がおり、1人が強かんしている間、ほかの2人は見ながら笑っていたという。彼女は抵抗するが顔を殴られ、3人に強かんされた。その後、3人の日本兵は部屋から出て行ったので、1人で這って部屋にもどったが、しばらくして別の日本兵に連行されて同じ目にあった。その夜、10数回強かんされたという。

 その妹の15歳のフィリピン人少女も(1-17)、部屋から日本兵に連れ出されそうになったとき抵抗すると何度も蹴り殴られ、2階上のアルハンブラ通りに面した部屋に連れて行かれた。その日本兵は、彼女を窓のそばにつれていき「川の向こう側にはたくさんのアメリカ兵がいる、われわれはまもなく死ぬので、二人ともかれらを見ることはないだろう」と言って、それからピストルで脅して彼女を強かんした。その日本兵からは「おまえはアメリカ人の赤ん坊ではなく、日本人の赤ん坊を生むだろう」とも言われたという。部屋に戻されてからも、さらに3回連行されて同じような目にあった。その中の一人の日本兵は、日の丸を描いたタオルを頭にまいていたという。

 その二人の妹で14歳の少女もコーヒーポット・グループに入れられた(1-19)。彼女も一度、日本兵に連行されたが、生理中とわかり、その日本兵は彼女の尻を蹴り拳銃を抜いて「殺すぞ、殺すぞ」と怒ったが、部屋にもどされたという。彼女の話によると、翌朝、母親のいるダイニングルームに行き、そこで母親や兄弟たちが彼女の上になって彼女たちを守ったが、先に紹介した24歳の姉は、水を求めてダイニングルームから出たときに、しばらく戻ってこず、強かんされたと母親に話していたという。

 28歳のイタリア人の女性によると(1-25)、「なにもかもが混乱していて、少女たちはみんな泣き、すすり泣き、祈っている人もいました。廊下から足音が聞こえるたびに私たちは祈り始めました。夜のはじめのころは、やってきたのは将校たちでしたが、後に兵士たちも来ました。(中略)非常に酔っ払って銃剣を持った日本兵を思い出します。彼は銃剣でドアに深い傷をつけて、この銃剣がいかに鋭いのかを少女たちに示しました。その銃剣で、ある少女のスカートを裾からお尻まで切り裂きました」と語っている。

 36歳のフィリピン女性は(2-14)、コーヒーポット・グループの中では最年長ではないかと思われるが、マットレスの下に隠れていたので日本兵にみつからずに助かったと証言しているが、連行された少女たちがもどってきたときの様子について、「彼女たちはみんな泣いており、おびえた様子でした。しかし何も言いませんでした。私が覚えているかぎりでは、ほとんどの少女たちは、床に崩れ落ち、身体を折りたたんで目立たないようにし、悲しみ、祈っていました」。「一晩中、拷問と大きな恐怖と苦しみの夜でした」。日本兵は「とても人間ではありませんでした。けだもののように振舞っていました」と語っている。

 コーヒーポット・グループの女性・少女たちは10日早朝には部屋を出て、ダイニングルームなどにいる家族と一緒になるなど逃げようとしたが、その後も被害にあった女性もいたようである。いずれにせよ恐怖と拷問の一夜を経験したのである。その中には14~15歳の少女たちが何人も含まれていた。

 日本兵の襲撃を受けたのはコーヒーポット・グループの女性たちだけではなかった。

 娘二人(1-91-10)をコーヒーポット・グループに入れられた39歳の母親は(1-11)、息子と手伝いの女性と一緒に約30人でベイビューホテルのある部屋へ監禁された。その部屋にも日本兵がやってきて、母親と一緒にいた13~4歳くらいのフィリピン少女が連行された。その少女は「泣きながら日本兵から逃れようとしました。少女の母親はひざまずいて連れて行かないように頼みました」。しかし「日本兵は少女に平手打ちをし、彼女をつかんで部屋から引きずっていきました」という。その少女は1時間半後にもどってきたが、泣きながら母親に3回強かんされたと言っていたという。9日の夜だけで、その部屋から5人のフィリピン少女が連行されたという。

翌朝5時ごろ、部屋を出て下の階に行くと、ダイニングルームにたくさんの人がいたのでそこに移った。そこに14歳の娘が来て、昨夜のことを知った。その後も日本兵が来て、娘を連行しようとしたが、娘を守るために抗議してやめさせたという。

32歳のフィリピン女性は、ベイビューホテルでの自分の部屋の様子を次のように語っている(2-5)。「(連行されてもどってきた)少女たちは非常におびえ、何人かはすすり泣いていました。誰も何も話したくありませんでした。誰もが床に場所を見つけ、涙を流しながら横になっていました。髪の毛はめちゃくちゃになり、服は汚れて乱れていました。何人かは血を流し、スカートにも血がついていました。誰もが祈り、子どものいる者たちは泣き叫び、年取った女性たちは嘆き、一晩中、混乱状態でした。日本軍が私たちを片付けようとするときには、私たちは生きていられるとは思いませんでした」。

 

 

・・・・Ⅲ 米軍による捜査

 

 

194510月よりマニラにおいて、フィリピン全域の日本軍最高司令官であった第14方面軍司令官山下奉文大将が戦犯裁判にかけられるが、その起訴容疑の中の一つに「1945年2月9日から13日の間、ベイビューホテルにおいて、約400人の女性が監禁され、約40人が強かんされたとして知られ、ほかに同じくらいの女性が強かんされようとした」ことが挙げられている[10]

その後、米軍の捜査当局は、捕虜や終戦によって投降した日本軍将兵の尋問をおこない、加害者を特定しようと努力した。マニラ海軍防衛隊の上級司令部にあたる振武集団の集団長であった横山静雄陸軍中将をはじめ計36人の日本軍将校・下士官らを尋問し、マニラ海軍防衛隊の司令部大隊が関連部隊ではないかと判断し捜査を進めた[11]。しかし1946年5月13日付で、戦争犯罪捜査を担当している二人の将校は、関係部隊の主な将校は戦死しており、またほかの部隊が入ってきていた可能性もあるがその詳細は明らかでなく、結局、加害者について命令者も実行者も共に特定することができないとし、この事件捜査を打ち切ることを捜査課長に提案した。

 その後、46年12月にこの事件の「証拠概要」が東京裁判にも検察側証拠書類として提出されていることはすでに紹介した通りである。

捜査打ち切り提案から10ヵ月後の1947年3月末から4月にかけて捜査関係部局の間でこの事件の扱いが検討された。そのやりとりの中で3月31日に逮捕課は、加害者は誰も特定されておらず発見もされていないと報告、4月2日再審理課は、加害者を誰も逮捕していないので、このケースを打ち切るように勧告した。それを受けて、14日に打ち切りが決定された。こうしてベイビューホテル事件は、その一部の内容が山下裁判と東京裁判に証拠書類として提出されて、事件の一端が知られることになったが、詳細は公になることなく終わったのである。

しかしその膨大な捜査報告書が残されたことが、今日、その事実を解明するうえで貴重な史料となっていることは言うまでもない。

 

 

 

 

●ひどい強姦=性暴力

米軍による捜査によれば、強姦された最年少は12歳の少女。ただし、証言者年齢としては幼すぎるので、証言した最年少は14歳だ・・・と。

マニラ市街戦は、1945年2月3日より3月3日までの1か月間続いた日米両軍による市街戦。2月7~8日には「フィリピン人を集めて殺害するように」命令が降りていました。

その最中で、海軍将兵による若い女性達への集団強姦。被害女性のうち名前が確認できたのが269人。
凄い人数です。
なんでしょう?これ。

悪魔の所業だとしか言い様が無いです。
山下奉文大将の軍事法廷、それと東京裁判に提出された証拠書類によって、事件の一端が知られることとなったそうです

 

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