赤い報隊や右翼に対して、強い言葉で叱りつけるだけでなく、
「不寛容・寛容とヘイト」について何かできることを提案することも大事と感じる記事がありました。
式守さんの「哲学カフェ」に関する記事でした。
私自身もセラピストとしては「寛容」でなければいけないし、受け入れることのできる容量を増やしておかないといけないと感じます。
しかし人間である以上、「いっぱい」になることもあります。
反論や受け入れられないことについては、できるだけ言論で、
そしてできるだけ共感を得られるような方法で解決していかねばならないのだと思います。
赤報隊だった人と右翼テロを容認する人、一度立ち止まって考えてみてください。
人間は考える葦だよ。
それやめたら、仲間を殺してエサを獲った猿から進化していない生物だよ。
式守さんの記事をぜひご覧ください。
「反日」とかいう言葉は、「自分と考え方の異なる者を排除し社会的に殺したい」という意味でもあるので、やはり使いたくはないですね。
[・・・・・一部抜粋です・・
【受けとめる・共感する・聞くけど反対である・そして、受けとめていないの違い】
受けとめるという言葉は、そのまま共感すると同じでもない。受けとめたけど同意しないこともありうる
「受けとめると受け入れるの違い」で論議になりました。受けとめるの方がやや大きな概念でしょうか?
他方で受け止めてほしい局面で、受けとめていない場面もある。私の経験では仕事から帰った時の妻との会話で「話半分くらい」にしか聞けていないとき。国会審議でもまともに質問に答えていない場面は受け止めていないと言えます。最近とみによく見る場面です
【職業として受け止めること】
参加者には教員の方もおられましたが、私も部下の相談に応じることも日常的にありますし、多くの会社組織でも「傾聴」の機会はあると思います
でも「職業として」受けとめるのは、本当は精神的にしんどいことでもありますね。適当なことでかわすわけにもいかないですし。場合によってはバッシングの対象にされることもあるみたいですし
【自分の「容量・キャパシティ」】
結局、他人を受け止めるには「自分にも余裕・容量・キャパ」というものがないといけないな~という話へ流れていきました
学校の教員さんからは「近年、発達障がい・学習障がいって診断がされやすくなったが、それでかえって『私は専門外だから』と逃げる先生もいるし、生徒でもそういった障がいのある子を受けとめられる子と、あまり受けとめられない子がいる」という話がでました
ややワルの生徒の方が、障がいがあって周りを振り回すような子にも寛容だったりする傾向があるそうです。「自分に甘く、他人にも甘い」というか
優等生の方が、あまり許せない「自分にも他人にも厳しい」傾向があるそうです。「自分が我慢してやっているのに、なぜあいつは我慢できない?」と思うみたいです
世の中が、たいへん「不寛容」になってきているようで、いささか気になる式守にも、考えさせられる発言でした
式守の会社にも、外国から来ている学生、主婦、高齢者、障がいのある人、高校生バイト、大学生バイト、畑違いの業界からの転職者、本当は公務員や教員をめざしていた福祉職…たくさんの出自の人がおられます
介護職員さんだけでなく、相談員さん、看護師さん、事務員さん、運転手さん、調理員さん、掃除や洗濯業務の人、たくさんの職務の人がおられます
私自身が受けとめる(受けとめられること。受けとめてほしいことは少なくなりましたが)もあれば、職員同士・部門内で「受けとめる・受けとめられる・受けとめられない」といったことが日々されていて、時にコミュニケーション不足として困ったことになることもあります
職場を離れても、家族内で、地域社会で、その周辺でもいろんな「受けとめる」場面がありますからね
なんとか、自分の、自分たちの、周りの、世の中の「容量」を増やして「受けとめられる」枠が大きくならないのか?いろいろ考える式守です・・・・リブログに続く
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