西の見付(垂井宿の西の入口)の隣の愛宕神社前に
八尺堂地蔵尊道碑があります。左の道を200m程進んだ所に八尺堂があります。
今回はパスしましたが、垂井町観光ガイドによると
「八尺堂は元禄12年(1699年)頃、御所野ケ原の利生院で覚如法院と目の見えぬ母が仏のお告げを受けた。
そのお告げとおり、八尺(約2.4m)掘ると三体の地蔵様が出てきました。
その場に八尺四方のお堂を建て、お祀りすると目が見えるようになったと伝わっている。
また重軽石があり、もって軽ければ願いが叶うと言われている」
東海道本線の踏切を渡ります。
歩道橋を渡り左に見える中山道に入ります。
日守の茶所、大垣新四国八十八ヶ所弘法札所
江戸末期に、岩手の美濃獅子門「化月坊」が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に「秋風庵」を建てました。それを明治になって、一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで盛んに利用されました。
西濃新四国四十五番札所弘法大師の標柱と茶所前の地蔵堂があります。
すぐ先に
垂井の一里塚 江戸より112里目一里塚
南側の一基だけがほぼ完全に残っている貴重な遺跡です。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村とここの2カ所だけです。
一里塚を過ぎて21号線「日守西」信号交差点を横断し再び中山道に入ります。
関ケ原町の案内標柱
伊富岐神社(いぶきじんじゃ)入口の鳥居
創建は不明。和銅6年(713年)には存在していた。関ヶ原の戦いで社殿が焼失。今の社殿は寛永13年(1636年)に再建されたものです。
社殿が焼けた時ご神体は杉の御神木の幹の股に安置してあり無事でした。
参道を電車が通ります。
野上の七つ井戸
「関ケ原観光ガイド」によれば「ここ野上は、中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿でした。水不足に悩むこの地の人々は、江戸時代の頃から僅かな地下水を取得して多目的に利用していました。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人にとっては、喉を潤し、疲れを癒す格好の場所だった事でしょう。近年は、水道事業が整備されて放置されていましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から、休息所を兼ねて修復・再現しました。この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができますが、その際は安全に十分ご注意ください。また、飲料水ではないので、飲まないでください」
野上長者の娘の物語で有名な真念寺に寄り道します。
七つ井戸の先を左折し国道21号の野上信号交差点を横断します。
真念寺
神秘的な雰囲気の境内には、風格のある本堂と、その東に整然と「班女の観音堂」が建っています。この観音堂には、平安中期の野上長者の娘の物語が伝えられていますこの物語にはいくつかの説があり、現代では狂言や歌舞伎などで演じられています。
野上長者の娘の物語
美濃の野上宿の遊女・花子は、ある時宿に泊まった吉田少将と契りを交わし、その形見に扇を受け取ります。少将が気になり仕事が手に付かず、花子は宿を追い出されます。花子の不在を知った少将は、都へ来るよう伝言し、都へ戻って下賀茂神社を参詣します。そこへ班女と呼ばれる物狂いが来て、従者に舞いを命じられます。扇を手に玄宗と楊貴妃の故事を語り、恨み狂おしく舞い踊ります。扇を見て、班女が花子だと気付いた少将は再会を喜び、正式に誓いを交わしました。
再び来た道を引き返し中山道に戻り
野上長者屋敷跡の前を通り松並木の道を進みます。
松並木が続きます。
山之内一豊陣跡 山之内一豊陣跡 説明板によれば
慶長五年(# 1600)家康の会津征伐 に従軍した一豊は、関ヶ原の戦い で西上に際し、掛川城 を明け渡しての出陣となりました。
岐阜、大垣城の兵と戦い、ここ野上に入ると、一豊外八将は一里塚より桃配山 まで
の間の中山道左右に並列に陣し、南宮山 の敵に備えました。
その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番によ
る家康からの命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に柴井の地まで前進して戦
いました。
戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。 関ケ原町
六部地蔵尊
六部とは、「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修行している「人」ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が、宝暦11年(1761年)頃この地で亡くなったため、里人が祠を建てお祀りしたといわれている。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と詠まれているように、痛みのひどい病気をなおすことで名を知られている。
松並木を抜け21号の「関ケ原町野上」歩道橋付近に出ます。
ここを垂井宿方面に戻り 徳川家康の「最初陣跡」へ行きます。
ガソリンスタンドの横を上ります。
関ケ原合戦で徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」の最初陣跡
「壬申の乱」で天武天皇もここに陣を置きました。
歩道橋の下を通り「一つ野」信号交差点から右の中山道に戻ります。
馬頭観音堂
広重の関ケ原の絵
ここを過ぎて21号線に合流します。
若宮八幡神社
この「東公門」交差点付近に関ケ原の一里塚があったそうです。
江戸より113里目の一里塚
画像の関ケ原醸造(株)は 明治32年12月 創業 昭和41年 関ケ原たまりが、 「天皇の料理番」の秋山徳蔵主厨長に認められ「賜 宮内庁御用」を賜りました。
「関ケ原駅前」信号を過ぎ大垣共立銀行の先右側に
脇本陣跡があります。
慶長8年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です。その禅師の生誕地の当家は、後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。
至道無難禅師誕生地碑 至道無難禅師生誕地・関ケ原宿脇本陣跡
説明板によれば
「慶長八年( 1603) 本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、
臨済宗妙心寺派 の江戸前期の高僧です。
禅師は国師 の法を継ぎ、宗勢拡大に寄与され、江戸禅宗界に名声を博しました。
なお寛文二年(# 1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎 とは従兄弟の
間柄で、彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います。
当家は後脇本陣を勤め、この門はその面影を伝えるものとして貴重です。関ケ原町」
この先で歩道橋右横の狭い路地に入ります。
この辺りに関ケ原宿本陣があったそうです。
関ケ原観光ガイドによれば
「本陣とは、参勤交代の際に大名が宿泊する施設のことです。宿場町であった、関ケ原にも「関ケ原宿本陣」が、その昔ありました。現在は、本陣の庭があった場所に「八幡神社」が建っており、その当時から残っている、古木「スダジイ」が往時を偲ばせてくれます。本陣は、その地域の有力者の邸宅を使用していました。関ケ原では寛永元年(1624年)に設置され、建坪は152坪(約500㎡)あったそうです。本陣は、明治維新により参勤交代が行われなくなった後は有名無実となり、明治3年に廃止されました。ちなみに「関ケ原宿本陣」の門構えは、垂井町の「本龍寺」へと移築されています。
本陣跡の「スダジイ」は太さ4.4mで県天然記念物に指定されています。江戸時代、参勤交代で関ケ原を訪れた人々をずっと見守ってきた、とされています。ブナ科の常緑高木「スダジイ」は椎の一種です。一般に大木・古木となりやすく、葉は革質で長円形。果実はどんぐりのようで食用にもなります。木は建材・家具材・椎茸の原木などにもなり、樹皮は染色に用いられています」
八幡神社
八幡神社の左の道を進み右折しすぐ左折し東海道線の上を通り東首塚に向かいます。
東首塚の唐門
唐門を入ると、ここにもスダジイの古木がありました。
関ケ原古戦場東首塚の碑
文化14年(1817年)に建てられた首級墳碑
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ケ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営しました。
東首塚からさらに進むと徳川家康の最後陣地があります。
関ケ原の戦いに大勝した家康は論功行賞の判断材料のため、この場で床几に腰かけ、味方が討ち取ってきた敵将の首を自ら首実検しました。
首は東西2か所の首塚に葬られました。敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の習慣とされ、死者への表敬の儀礼でした。
再び中山道に戻ります。
西首塚 この辺りを何度も行ったり来たりしてやっと見つけました。
21号線「ヤマモト接骨院」の前にありました。
この奥に江戸時代から十一面千手観音及び、馬頭観世音の堂が建てられ、附近の人々の手によって供養されています。
この先の左斜めに入る道を進みます。
近くに福島正則陣跡があるので寄り道します。
井上神社社標のある路地に入り福島正則陣跡に向かいます。
福島正則陣跡
説明板によれば
「春日神社という神社の境内に「福島正則陣跡」があります。福島正則は、秀吉子飼いの大名でありながら関ケ原の戦いでは東軍に参加しました。その最大の理由は、三成に対する憎しみによるものだったといわれています。福島正則は、武力をもって物事を解決しようとする主義なのに対し、三成は教化・法令により世を治めようとしていました。つまり、二人の考えは正反対だったのです。三成に対する敵意を家康に利用され、正則は東軍に加わることを決意しました。そして正則は15日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかったとされています。また、境内にそびえる樹齢800年の月見の宮大杉は関ケ原合戦図屏風にも描かれています。当時、この大杉が合戦を間近で見ていたのか、と考えてみると胸が熱くなってきませんか。(関ケ原観光ガイド)」
中山道に戻ります。
不破関守跡
東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに、古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(672年)後に設けられました。延暦8年(789年)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景が多く記されています。
不破関西城門と藤古川説明板と戸佐々神社入口
説明板によれば
「不破関西城門(きもん)と藤古川 不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は約10~20mの急な崖になっており、またこの辺り一帯は伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で、自然の要害を巧みに利用したものでした。ここには大木戸という地名も残っており、「西門」があったとされています。 関ケ原町」
戸佐々神社は不破関を鎮護する神として祀られていたそうです。祭神名は「関比男明神」といわれています。この神は現在、「井上神社」に合祀され、「戸佐々神社」では伊勢の天照大神が祀られています。
坂道を下ります。
藤古川
壬申の乱では藤古川を挟んで東に天武天皇、西に弘文天皇がにらみ合いました。
弘文天皇は敗れ自害しました。
遠くを新幹線が走り抜けていきました。
矢尻の井 説明板によれば
「矢尻の池 (井)関ケ原宿から今須宿に向かう中山道のうちでも、不破関・藤古川と続くこの辺りは、「木曽名所図会 」にも描かれ、歌枕となっていました。
この窪みは壬申の乱 672)のとき、水を求めて、大友皇子軍 の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられています。 長い年月を経た今では、その名残を僅かに留めているに過ぎません。関ケ原町」
箭先地蔵堂(やさきじぞうどう)
「大谷吉隆墓七丁」と彫られた石柱
吉隆は吉継の改名した名前です。
三好義継が織田信長に反抗したため攻め滅ぼされ、三好家が断絶した事から“よしつぐ”という名前を忌み嫌ったためと言われています。
弘文天皇御陵候補地、自害峯の三本杉へ行きます。
藪道を抜け、山道を登ります。
※壬申の乱が起こった原因
当時の天皇家のルールでは、天皇に同じ母から生まれた弟がいる場合は、現行の天皇の後継者は弟であるとされていました。つまり大海人皇子が正統な後継者です。
ところが、天智天皇は弟よりも自分の子どもである大友皇子を後継者にしたいと考えました。天智天皇の決断をきっかけに、彼らは皇位を巡って争うようになったのです。
自害峯の三本杉 説明板によれば
「壬申の乱(672年)は天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)と同天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で起きた皇位継承争いでした。その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。関ヶ原町」
中山道に戻り国道21号線に出て左折し、歩道橋を渡り中山道に入ります。
右に進みます。
右側の古民家の大谷石の塀の前に山中村立場跡の説明板があります。
説明板によれば 立場
江戸時代を通して、旗本竹中氏の知行地であった此処山中村は中山道間の宿として、酒蔵業をはじめ十数軒(天保年間)の商人が軒を連ね賑わっていた。
この立場というのは、旅人や駕籠を止めた人足たちが利用する宿間に設けられた休憩所のことである。旅人が杖を立て掛けて休んだことから、このように呼ばれた。 関ケ原宿~今須宿 間の距離は一里3.9km)であるが、距離によっては立場が二か所あった。ここは地形的に西側に街道の難所今須峠 が控えており、この立場に立ち寄る人も多く活気を呈した。なおこの旧立場は明治初期に修築されている。関ケ原町」
大谷吉継陣跡・大谷吉継墓の説明板
小早川秀秋の寝返りによる大谷隊の壊滅で戦いの均衡は一気に崩れ、それまで善戦していた西軍諸隊は動揺し、総崩れの発端となりました。
若宮八幡神社
間の宿山中の道標と高札場跡
左下に流れるのが黒血川です。
説明板によれば
「黒血川 壬申の乱 (672)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(関ケ原町玉)を経て大海人軍 の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。 この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い様子を今に伝えています。 この川は、青野ヶ原 や関ヶ原の戦い 等、古来軍事上屡々(しばしば)利用されてきました。 関ケ原町」
常盤御前墓所の入口にある常盤地蔵
説明板によれば
「平安末期、此処山中村で起きた常盤御前の不幸な出来事は、涙なしには語れない。常盤は「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折には是非道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し息を引き取った。時に常盤43歳。主人は常盤の念願が叶うよう街道脇に塚を築き、手厚く葬ったのである。〔右手下約300m先にあり〕 其の後哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くのこの場所に安置し末永く供養することを誓い合った。 案の定寿永二年(# 1183) 義経上洛 のため弐万餘騎を率いて、当地若宮八幡神社 に到着し、西海合戦 勝利を祈願。 合わせて母の塚及び地蔵前では、しばしひざまずき、草葉の陰から見守る常盤の冥福を祈ったという。 関ケ原町」
常盤御前の墓所と芭蕉の句碑
常盤御前の墓 説明板によれば
「都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若 、乙若 、牛若 の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。関ヶ原町」
芭蕉の句碑には「義朝の 心に似たり 秋の風」と刻まれています。
中山道に戻ります。
今須峠入口の東海道本線山中踏切
今須峠頂上 説明板によれば
「此処峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登り口より約1000mの道程です。 一条兼良 はこの峠で、「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川の記 )と認めたように、この付近きっての険要の地でした。 往時この付近には、茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として、賑わっていました。 京方面に向かって約200m、一里塚を眺め峠を下ると、今須宿 に入ります(関ケ原町)」
今須峠京側入口
東海道本線の踏切を渡り国道21号に合流します。
今須の一里塚 江戸より114里目の一里塚
峠をここまで下りてきて一安心です。
今須峠は難所と聞いていたのですが、それほど心配することなく通過しました。
途中でタラの芽を採ったりしながらのんびりと歩けました。
しかし、この辺りは積雪の多い所です。毎年冬場に積雪で渋滞が発生する名神高速道路関ケ原トンネルの近くです。
雪の積もった時期でなくて幸いでした。
21号線から今須宿に入ります。
前方の看板の「軽食喫茶 今須宿 1.5km先」を勘違いして矢印の方に進んでしまいました。
どれぐらい歩いたか、途中で気付て引き返し右の道に入りました。
今須橋
常夜燈があります。
ここの手前の門前橋(橋名が消えていて分からなかった)辺りが今須宿の入口かな?
今須宿本陣跡 説明板によれば、
「当宿は美濃国と近江国の境の宿として栄えました。215坪の本陣が一軒で現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。また脇本陣は美濃十六宿の中でも当宿のみ二軒あり、各々現在の小学校駐車場附近辺りにあったのです。後者河内家の母屋は寛政年間に現米原市伊吹町の杉沢地内妙応寺末寺玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。尚関ケ原合戦の翌日、佐和山城 攻めに際し、家康 が本陣伊藤家の庭先で休息した折、腰掛けたという石は、現在東照宮大権現腰掛石 として妙応寺 境内で保存展示されています」(関ケ原町)
妙應寺
正平15年(1360)に、今須領主長江重景が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院。
今須宿は妙應寺の門前町として発展しました。このお寺は 精進料理が有名だそうです。
今須宿問屋場跡
説明板によれば
「江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。
美濃十七宿 のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。 縁起物の永楽通宝 の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます」(関ケ原町)
今須宿の常夜灯
「金毘羅大権現」と彫られています。 説明板によれば
「街道が賑わっていた江戸期は、文化5年(1808)のことです。 京都の問屋河地屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿 付近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。そこで金毘羅様 に願をかけ、一心にお祈りをしました。 幸いに荷物は出てきて、そのお礼にと建立したのがこの常夜灯です」(関ケ原町)
真宗寺 真宗大谷派のお寺
法善寺 真宗大谷派のお寺 八幡神社
車返しの坂 説明板によれば
「南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基 という人。 ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです」(関ケ原町)
今須信号交差点を横断し踏切を渡ります。
今須宿の京側入口 芭蕉の句碑「正月も 美濃と近江や 閏月(うるうづき)」
近江美濃両国境寝物語の標柱
美濃と近江の国境の溝
寝物語の里の碑 説明板によれば
「近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱 (1159))後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り合った」所とも伝えられています。 寝物語は中山道の古跡として名高く古歌等にもこの名が出ていますし、広重 の浮世絵にもここが描かれています」
「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語もしのぶばかりに」太田道灌
平成4年1月 (滋賀県米原市)」
広重の今須宿の絵
ここまでカエデ並木が続いていました。江戸時代は松並木だったそうです。
道標 ここから柏原宿に入ります。
神明神社
東山道 道標
(神社鳥居脇) 説明板によれば
正確には、東山道 ・ 中山道分岐点道標。県境、寝物語長久寺 より坂下JR踏切までは、古道東山道の上に中山道が敷設された。 それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設された。
踏切を渡りました。
柏原宿の案内板 柏原宿の略歴が書かれています。
照手姫笠掛地蔵
常陸国の城主小栗判官助重が毒酒を飲まされ危篤になったとき、 愛妾の照手姫が地蔵に笠をかぶせて平癒を祈願した。 そのかいあって小栗は平癒し、長久寺に蘇生寺を建立し、 地蔵はその寺に祀られたという。
柏原宿東見附跡 説明板によれば
柏原宿 東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。 見付とは、本来城門のことで宿場用語となった。見付は宿場西口にもあった。 東口の土手は、古図に幅二間奥行2間半、土手上面に灌木が描かれている。 宿東西の見付は、貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。
八幡神社 説明板によれば
芭蕉と伊吹山
松尾芭蕉 は、柏原宿を三回西から東へ通っている。三回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。
「奥の細道 」では、伊吹山麓の北国脇往還を関ヶ原へと通った。そのときも伊吹山の句を残している。 その句碑は、すぐ後ろ神社境内、松の木の下にある。
芭蕉の句碑
戸を開けはにしに山有いふきといふ花にもよらす雪にもよらす只これ孤山の徳あり
「其まゝよ(そのままよ) 月もたのまし 伊吹山」
JR柏原駅に到着しました。 正面の山は伊吹山です。
時刻14:55
今日はここまでです。
「中山道歩き 柏原宿から高宮宿まで①」に続く