日中、もっとシャキッとできたらノルアドレナリン分泌とかいろいろ増えたりして、痩せたりするかも。
でもぼーっとしてるのが好きだからしょーがないな。
そして今日もぼーっ。
それが幸せなのです。
私は前に、強い人を見たことがないと書いた。
でも、それって違った。
私は強いと思う人をたくさん知ってる。
浅田真央さん
天野月子さん
鬼束ちひろさん
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私の思う強さって何なんだろう?
根底に譲れない思い、人生の達成目標、超えるべき自分、自分を見つめる力、・・・・・・
そんなもの?そんなものがある?
なにか、核となるものを持っているのだと思う。
何があっても譲れない何か。
人生の目標。
自分の人生を賭けて達成したい強い何か。
強い思い。
何を犠牲にしてもやり遂げようと思うこと。
例えどんな状況にあっても。
ただ、生のために生きるんではなくて、何かを達成するために自分に与えられた生を使っている。
生を使って何かをしようとしている。
生きることが最終目的じゃないんだ。
生を使って叶えたい、得たい、何かがある。
そういう強さに私は憧れる。
私も、強くありたい。
私も、この与えられた生を、私の目標を達成するために使いたい。
私は、人の心を動かしたい。
感動させたい。
価値観を変えてしまうような、なにかを、したい。
その強い目標は、小学5年のときからある。
ただ、生の使い方が分からない。
私は考えたい。
私に与えられた生の有効な使い方を。
私は強くありたい。
私は人の心を動かしたい。
私の心には「人の心を動かしたい」という思いがある。
話や存在で動かしたい、と思う気持ちが「看護師」の道で、
文章で動かしたい、と思う気持ちが「文筆業」の道を私に考えさせる。
私には、どちらがより心を動かせるのか分からない。
私には、まだ分からないことだらけ。
だから私は、挑み続けようと思う。
分からないけれど、そのとき信じた道を、私は歩く。
引き返すことになってもかまわない。
私があるいてきた道の記憶は、はっきりと私の脳裏に焼きついて、私を構成する一部になるんだから。
私は、強く、凛とした存在でありたい。
15歳の浅田真央選手の演技はまるで氷上の妖精のようだと思う。
あの時の彼女の演技は、今のキムヨナの金メダルの演技より、私は好きだ。
今のキムヨナは確かに凄い。
でも、15歳の浅田真央の演技は、もっと伸びやかで、軽やかな気がする。
四年前、年齢制限でオリンピックに出れなかった浅田選手は、笑いながら「四年後の楽しみにします」ということを言っていた気がする。
それから、フィギュアスケートの失格基準が変わった。
彼女に不利な方向へ。
それから、彼女のスケートは、どこか制限されているような、風に思う。
彼女のスケートは矯正を強要されて、伸びやかではいられなくなってしまった。
羽を捥がれた鳥みたいに。
でも、彼女はその中でも自分に持てる力を出し切って氷上の演技を追い続けてる。
彼女は天才。
でも、誰のせいでもなく、時代のいたずらで不遇。
けれどそれでも、彼女は足掻いて自分の持てる全力を使って挑み続ける。
彼女が責めるのはいつも自分だ。
誰のせいにもしない。
時代のせいにすらしない。
三つも年下だけれど、彼女のことを私は尊敬する。
本当の強さを彼女は持っている気がする。
彼女はまた、挑み続けるんだろう。
運命がどうあろうとも、彼女は彼女自身を見つめて戒めながら、認めながら、挑むんだろう。
努力が報われない。それは、辛く苦しい道だと思う。
でも、彼女はあきらめないのだろう。
あきらめないでほしい。
ふと、思った。
天才は不遇なもの。
神様は天才に逆境を与える。
それは、神様が、その人にしかその苦しみを乗り越えられないと、言い換えれば、唯一その人だけが、その苦しみを乗り越えられると知っているから、苦しみを与えるのだと。
苦しみは楽しみの十倍の価値がある、とは、ミケランジェロの言葉だけど、本当にそう。
逆境を与えられる彼女は、神様にその才能を愛されているのだと思う。
かみさま、ってよくわからないけれど、特別な宗教ではなくて、私の中では、なんだか、ばくぜんとしているけれど。
そう、インタビューに答える浅田真央選手を見て、思いました。
彼女を尊敬して、そして、応援しています。