ローマ歴史講座①「ローマ -王政時代と共和制時代- に行ってきました@高円寺ピアッツァイタリア | figlia-del-soleのブログ

ローマ歴史講座①「ローマ -王政時代と共和制時代- に行ってきました@高円寺ピアッツァイタリア

 

前回の「エトゥルスキ講座(全2回)」に続き 次のピアッッアイタリア歴史講座は ローマ帝国です!!

それが私ってば せっせと予習したのはいいけど カエサルからあとの時代を予習していったら ロムルスとレムスからみっちりていねいにやってくださり(笑)... まっいいか~この時代はあまり資料もないし~初めて聞く名前ばかりでした~( `ー´)ノ


まずはざっくりとローマ帝国を時代で分けてみると(予習部分):

753 a.C. ロムルスがローマ建設 7人の王による王政ローマの時代 (第1回目にやったところ)
509 a.C.  王政が終わり 共和制となる ポエニ戦争やグラックス兄弟の改革 スパルタクスの乱 第1回・第2回三頭政治 独裁官カエサルの暗殺等を経て
27 a.C. 元首制(帝政/プリンキパトゥス)となる アウグストゥスから始まり5人の皇帝 Pax Romanaの200年  暴君ネロのキリスト教迫害 五賢帝時代 ローマ領域最大 セウェルス期 軍人皇帝時代 
   
284年 ディオクレティアヌス帝により 専制君主制(ドミナトゥス)と テトラルキア(四分割政治) ミラノ勅令でコンスタンティヌス帝がキリスト教公認(313年) ゲルマン民族大移動 コンスタンティノープル遷都(330年)ecc...

395年 テオドシウス帝の死後 東西に分裂 
476年 西ローマ帝国 滅亡

1453年 東ローマ帝国 滅亡... と続くわけですね

     *      *      *

まずはローマの7つの丘の写真から始まりました~ この時代のことはすべてleggenda(伝説、伝承)によるものです

マルス神の息子 ロモロ(Romolo)とレモ(Remo)について詳しく トロイア戦争で敗走したトロイア人英雄(eroe troiano)のアイネイアス(Enea)がイタリア半島のラティウムに上陸し 現地の王の娘を妻としてラウィニウムを築きます

アイネイアスの息子アスカニオス(Ascanio)が アルバ・ロンガ(Alba Longa)という新しい街をつくります
そしてアスカニオスの息子アムリウス(Amulio)が 兄ヌミトル(Numitore)から王位を奪ってしまうのですね...
ヌミトルの息子は殺され 娘のレア・シルヴィア(Rea Silvia)は 「もし双子が生まれたら アスカニオスの街を破壊するであろう」という予言のために 処女を義務づけられた「ヴェスタの巫女(Vestale)」にされてしまいます
 
ところが 彼女が眠ったすきにマルス神(il dio Marte)が彼女と交わり 双子が生まれました 
予言を恐れた叔父アムリウスが 双子を川に流しますが 運よく雌狼(lupa)に助けられ羊飼い夫妻に育てられ 長じて 大叔父(アムリウス)を討ち 祖父のヌミトル王の復位に協力し...というわけです

なので ローマ建国のロムルスとレムスは マルス神と トロイア人アイネイアスの末裔の娘レア・シルヴィアの娘なのでした...といっても伝承なのですが


さて 紀元前753年4月21日にロームルスが王になり テヴェレ川の畔のパラティーノの丘(colle Palatino)に都市ローマを建設したのですが なぜロームルスが双子のレモを殺したのか? それは ロームルスがパラティーノの丘に Pomerio(ポメリウム、聖域)という聖なる境界(il confine sacro)を造ったのですが レモは武器を持ってその中に入ってしまったからなのだそうです

そしてロームルスは Romaを作ったEponimo*(名祖/なおや)となりました
  * 民族や地との名の起こりとなった実在もしくは伝説の人物 

そのロームルスが作ったのは: Senato(上院) Esercito(軍隊) Leggi(法律) Gens(族) です

最初のローマはラテン人の国でした やがて隣のサビーニ人の娘たちを策略により略奪して妻としてそのまま和平を結び サビーニ部族をあげてローマに移住しますが この時のシーンを描いた絵や彫刻「サビーニ人の略奪(il Ratto delle Sabine)」をじっくり鑑賞しました ← 彫刻はフィレンツェのシニョーリア広場にあります

     *      *      *

さて7人の王について:

初代ロームルス Romolo(753-716 a.C.)上記参照): 最期は 715a.C.のある日雷雨が襲い 玉座を見ると王はどこにもいなかった この時王は死んだとされました 

第2代ヌマ・ポンピリウス Numa Pompilio (715-673 a.C.)

ロムルスを誰が暗殺したかという噂が飛び交いなり手がおらず 市外の賢者であるサビーニ人のポンピリウスを 市民と元老院が選びました 
"Re Sacerdote"(聖職者の王)と呼ばれ 哲学と瞑想を好み 温厚で彼の時代はローマに戦争は起こらなかったそうです

またローマ内部の部族同士のいさかいをなくしました ローマ歴を12ヶ月の太陽暦に改め 農業をすすめ 宗教改革も行い ローマ神話の骨格と神の名も決めました ヴェスタの神殿とヤヌスの神殿(Tempio di Vesta e Giano)を建てました このヤヌスの神殿の扉は戦争のときは開かれ平和なときは閉じられるとされ ヌマの治世中はずっと閉じたままでした 


第3代 トゥッルス・ホスティリウス Tullio Ostilio (673-641 a.C.)

ラテン人で Il "Re Guerriero"と呼ばれ 上院の集うクリア族区(Curia)を創り 近隣で最大のラテン人都市アルバ・ロンガを征服し 王を殺して街を破壊しましたが アルバ市民はローマ市民として迎えられ その中にカエサル等を輩出したユリウス一門が含まれていたそうです
神を信じず戦いは強かったそうで 伝説によると 神がいなづま(fulmine divino)を放って彼を討つシーンが教科書に載っていたとのことですが 本当はSenatoが討ったのではとされています


第4代 アンクス・マルキウス Anco Marzio (640-616 a.C.)

第2代のヌマの孫でサビーニ人の王 戦を行う傍ら 商人で貿易に長け il "Re Mercante"と呼ばれました 
海辺のオスティアを征服してローマの外港としました ローマに塩をもたらしました テヴェレ川に最初の橋である スブリチョ橋(il ponte Sublicio)を作りました 平民(Plebe)をつくりました
ここまでは ラテン人とサビーニ人が交代で王になっていました

第5代 タルクィニウス・プリスクス Tarquinio Prisco (616-579 a.C.)

エトルリア人で第4代アンクス・マルキウスの養子で「古風王」と呼ばれました 騎兵(cavalleria)を強化し 上院を100名から200名に増やしました
チルコ・マッシモ(il Circo Massimo)という 戦車競技場の原形を作りました
パラティーノの丘の北部に下水溝を通し 湿地の水をテヴェレ川に排水し干拓するという下水道のクロアカ・マッシマ(Cloaca Massima)を作りました
「ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(il Tempio di Giove Capitolino) をカンピドーリオの丘(Campidoglio)に建て  故郷のエトルリアから技術を導入して水道橋を作り 産業が活性化しました 
平民に食べ物を施すことで反乱を防いだそうです 

先王アンクス・マルキウスは彼の素質を見抜き養子としました その先王の死後に実子に代わりローマの王となったのですが 王位を狙う先王の息子により暗殺されてしまいます ただしその息子は王になることに失敗したそうです
 


第6代 セルウィウス・トゥッリウス Servio Tullio (578-535 a.C.)

第5代タルクィニウスの婿のエトルリア人です 「セルウィウスの城壁(Mura Serviane)」を建設しましたが これはローマの七つの丘を囲む大規模なものだったそうです
軍政の改革も行いました 部族(tribù)と財産登録(censo)を導入し (今でいう)国勢調査(censimento)により人数等を把握しました 
il Tempio di Diana をアヴェンティーノの丘(Avventino)に作りました 
 
が あろうことか 娘トゥッリア(Tullia)とその夫タルクィニウス(Tarquinio Prisco/第5代王タルクィニウス・プリスクスの息子(figlio)により暗殺されてしまうのです...
自分の夫を王にするために父親を暗殺するという...絶句しました( ;´Д`)

第7代 そして最後の王 タルクィニウス・スペルブス Tarquinio il Superbo (535-509 a.C.)

傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの王は 前王(義父)の葬儀を禁じ 先王派の議員を殺し 承認されぬまま自分で王になった(salire al trono con la forza)ということで評判も悪く 殺人と暴力とで民を統(す)べていたため ローマの外に遠征中にローマの民から棄てられ 追放されてしまったのだそうです
  
エトルリアと同盟を結びましたが 強大なエトルリアの属国のようになってしまいます ちなみに第5代からの王はすべてエトルリア出身です

* superboは「傲慢な」という意味ですが ここから来てたんですね!

この第7代王の追放により とうとう紀元前509年(509 a.C.)王政が終わるのです そしてこれ以降は共和制ローマとなります 
まぁこれだけのことがあれば 「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれたというのも 無理はありませんね...

I romani aboliscono (廃止する)la monarchia (君主制) e nel 509 a.C. inizia la Repubblica (共和制) con i primi Consoli (執政官).

     *      *      *

 
また他にも 古代ローマの行政区分の構成について詳しく伺いました:

パトリキ(Patres/Patrizio) は100人いた Gens-Gentes (族)は家族の集合体で patriarca, Pater(家父長)のもとに組織された 王政においては上院(Senato)が王を選んだ 
クリア民会(la Curia)はフォロ・ロマーノにある上院の集う場 
部族(le Tribù) は3つあり(Latini, Sabini,Etruschi) それぞれが10クリア部族(curie)に分かれており 合計30のTribùがあった

 * 都市ローマはティティエス、ラムネス、ルケレスの3つのトリブスからなり、各トリブスは10のクリアに、各クリアは10のゲンスに区分されていた。(Wikipediaより)


ローマ時代の暦(calendario)カレンダーについて:
 
ロムルス暦: ロームルス(Romolo)の時代にはまだ1年は10ヶ月と30日しかなく 3月に始まり 冬の61日間はどの月にも割り当てられていなかった (農耕暦だったので 畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされます)
1月と2月が加えられたのは 第2代のヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilio)の時代で 1年ごとに2月の最後に27日間が加えられたり加えられなかったりしたそうです

また 執政官ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaio Giulio Cesare)は抜本的な改暦を決意し 紀元前46年の暦に 1年を365.25日とする太陽暦(calendario solario) に移行させ ユリウス暦を制定しました
記録に残る限り最も1年の日数が長い年は このローマ暦紀元前46年です

詳しくは こちら


最後に この時代の名残をとどめる「オスティア」がおススメ♪ 港があり ローマからも近くて 熱海みたいな感じで 別荘も多くて ぜひいらしてくださいとのことでした!!


ローマ歴史講座は こちら
 ← タイトル通りにはいかず 共和制までいかなかった(笑) ← この際だから みっちりじっくりやってください♡ 
イタリア語を学んでいない方も参加されてるので かなり日本語がメインです♪


2回目は 2017年9月3日(日)です!(^^)! 
Roma: l'età repubblicana
ローマ : 共和制時代


* 写真は2008年のフォロ・ロマーノ(Foro Romano)