「Gli Etruschi エトルスキ 第1回 -歴史と文化と宗教-」講座に行きエトルリアの歴史 | figlia-del-soleのブログ

「Gli Etruschi エトルスキ 第1回 -歴史と文化と宗教-」講座に行きエトルリアの歴史

昨年のピアッツアイタリアのセミナーは クリスマス料理セミナー サルデーニャセミナーに参加しましたが 今年はエトルスキ講座(全2回)に行ってきました 初めて習うマルタ先生です!

1回目(4/23)はエトルスキの歴史について 2回目(5/14)は文化、芸術、宗教等について詳しく説明していただきました

ピアッツァイタリアの教室は高円寺駅南口すぐにあり 窓から電車や広場がよく見えます♪ 日曜の午後にこうしてイタリア文化セミナーを受けていると なんか日当たりもよくていい気分...
やはりイタリアの歴史にすごく詳しい方たちが受けられており 私はさらっと予習した程度で申し訳ない($・・) 
以下は 色々な資料と合わせてセミナーの内容をまとめたものです:
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エトルリア(Etruschi)とは?

エトルリア(Etruria)は紀元前7~8世紀から 紀元前4~1世紀頃にかけて イタリア半島中部にあった都市国家集団です 
エトルリア人(gli etruschi)がローマを支配し そこのラテン人(i latini)を支配してましたが やがてラテン人に負けて ローマ文化圏になり消滅しました

 

エトルリア人の起源は?
4つの説があります
1. 先住民族/autoctonia degli Etruschi (帝政ローマの歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオス/Dionigi di Alicarnassoの説)

2. 小アジアのリュディア(トルコ/アナトリアにあった王国)からイタリアへ渡来した民族 (ヘロドトス/Erodotoの東方起源説)

3. 北方からの渡来説/la provenienza settentrionale(Tito Livioの説)  
インド・ヨーロッパ語族(non indoeuropea)ではなく 一つの民族(unità etnica)とは考えられない 
最近のDNA調査(nuovi studi del DNA)は ディオニュシオスの説を正当化しているが 現在論争中で解明されていない
古代エジプト第20王朝に記述のある「海の民」は エトルリア人ではなかったかとの説もある

ヴィッラノーヴァ時代(Epoca Villanoviana)とは?

エトルリアの前に 紀元前10世紀頃から花開いたヴィッラノーヴァ文明(la civiltà villanoviana)がありました ヴィッラノーヴァはボローニャ近郊にありました (ボローニャ近郊で 初期鉄器文明の遺跡が発見されたことによります)

* エトルリア人の文化の基盤となったヴィッラノーヴァ文化の陶器 水差し の展示品(東京国立博物館)

ヘシオドス(Esiodo)は紀元前7世紀初めに書きました: 「最初のエトルリア人の碑文/銘(iscrizione)はこの時代までさかのぼり、アルファベットが使われていたが、それは疑いなく 少なくともその70年前に クーマ/Cuma(ナポリ近くの古代ギリシャの植民都市)のギリシャ人とのコンタクトによって習ったものだ」と

ヴィッラノーヴァ人は 最盛期にはエミリア・ロマーニャ州からカンパーニャ州まで広がっていました  ばらばらに村が散在し ひとつのまとまった国家ではなかったそうです

エトルリアは統一国家だった?

統一国家を形成することはありませんでした 一時 北部、南部、中央部の3つの都市連合(città-stato)が作られ それぞれ12の都市が参加していました (写真参照) ゆるやかな都市同盟(l'alleanza,confederazione)を結んでいました

どのあたりに住んでいた?

カンパーニャ州や ポー河流域(Pianura Padana)にも 多数の独立自治の都市国家を建てて 宗教的性格の 12都市国家連合(federazione di 12 città-stato)を結成していました 

ペルージャ(Perugia)もエトルスキとの同盟(confederazione)により この12の都市国家連合のひとつになりました

だいたいトスカーナ ウンブリア州から テヴェレ川そしてラツィオ州の北まで さらには北上してポー川流域(エミリア・ロマーニャ、ロンバルディアの南東、ヴェネトの南くらい)まで 南はカンパーニャ州まで拡大してゆきました 

唯一のエトルリア海洋都市は おそらくポプロニア(Populonia)であり 他は後背地(hinterland)にありますが これは海賊の来襲を恐れたためです 

銅を産出していたポプロニアは海に面しており エルバ島(l'Isola d'Erba)が正面にありましたが エルバ島では鉄(ferro)や銅(rame)などが産出されており それをポプロニアでエトルリア人の技術によって加工していたようです 

今は何が残っているの?

La cinta muraria(城壁)は今もまだ見られます これは紀元前4~3世紀に建てられたもので 3キロもあります

エトルリア人は 古代ローマよりも前の民族でしたが 紀元前87年に ユーリウス法で エトルリア人もローマ市民権を得ています 
 
高度な文字文化を持っていましたが それらは文献として残っていません
エトルリアを吸収したローマの体制側が意図して隠滅したというのが通説です
わずかに石碑や墳墓に刻まれて残された彼らの文字は 非インド・ヨーロッパ語族(non indoeuropea)とみなされ 解読はいまだ不十分です

男女の墳墓の違いとは?

1853年にボローニャ近郊で見つかったヴィッラノーヴァ文化の特徴的な共同墓地(sepolcreto)の中には 2つの円錐を合わせた形の(a forma biconica)骨壺(il vaso ossuario)死者の遺品を収める)で 椀型の蓋をもち 大きな石の板で囲まれた空間に置かれていました

遺灰を収めるための骨壺には多くのタイプがあり 精密な装飾が施されたものも多かったようですが 粘土(argilla)は荒いものが使われました

兵士(男)の骨壺(墓、埋葬/sepolture)は 銅製の兜(elmo di bronzo)で蓋がされ ナイフ等が収められました 女性の骨壺にはピアスやアクセサリー等が収められました
ラツィオでは故人の遺灰(火葬だったのですね)は 小屋(capanna)の形をしたテラコッタの壺(urna)に入れられたそうです

生きていた時と同じように中をしつらえ 墳墓の中に人が入れるようになっていました 
墳墓は個人のものではなく 貴族階級の血族集団をまつったものです 
エトルリア人社会における貴族の存在は、古代ローマにおける氏族(gens)の原型となったと思われます

世界遺産のチェルヴェーテリ(Cerveteri)とタルクイーニア(Tarquinia)の墓地遺跡群の内壁に描かれた壮大な壁画は 宴会のシーンや 生活にかかわる様々なテーマが主題になっています 

どんな文化や言語があったの?

ギリシア文化を吸収しつつ 独自の文化を発展させてゆきました
独自のエトルリア語を使っていました 
エトルリア語*はアルファベットで書かれているので読めますが 意味はすべては解読されていません

* ヨーロッパにおける死語となった孤立言語との共通点を指摘し、ティレニア語族(ティルセニア語族、Tyrrhenian/Tyrsenian)を形成するとしている(Wikipediaより)

「トスカナ」というイタリアの地方名は エトルリア人のラテン語での別称「トゥスキ」(「エトルリア人の土地」の意味)に由来し イタリア南部のティレニア海は エトルリア人のギリシャ語名「テュルセノイ」あるいは「テュレノイ」(「エトルリア人の海」の意味)に由来しているのだそうです

当時としては高い建築技術を持っており その技術は都市国家ローマの建設にも活かされました 

エトルリア人の支配地域では 鉄 銅 スズの豊富な鉱脈が存在し 鉱山業や精錬業が盛んで 採鉱をおこない、金属、特に銅と鉄を地中海方面に輸出して富を得ました
また 建築や美術でも発展を遂げ 古代ローマのみならず ルネッサンス時代にも影響を及ぼしました 

鉱物と農産物を載せたエトルリアの船は地中海全域を航行し イタリア半島と地中海でのエトルリアの影響力が拡大していくとともに 地中海を舞台に交易を展開していたフェニキアとギリシャとのあいだに摩擦が生じることとなります

古代ローマの3人の王がエトルリア人だったの?

タルクィーニアからローマに移住したタルクイニウス・ブリスクス/Tarquinio Prisco(BC616年 - BC579年)は 5代目のローマの王でしたが クロアカ・マキシマ/Cloaca Maxima(最大の下水)はこの時期に造られ 現在も使われています
当時のローマは湿地帯(l'area paludosa)でマラリアが蔓延していたのだそうで 排水システムができたわけです
チルコ・マッシモ/Circo Massimo(競技場)も作りました

続く第6代の王、セルヴィウス・トゥッリウス/Sergio Tullio(在位BC579年 - BC534年)もエトルリア人で 彼は軍の大改革を成し遂げました
もともと軍隊は貴族階級出身の馬上の戦士からなっていましたが 徴兵を行い 兵士は鎧と武器だけを自前で用意し組織化されました
また アヴェンティーノの丘/l'Aventinoに ダイアナ/Diana神殿その他を作りました

しかしセルヴィウス・トゥッリウスは娘夫婦によって殺害され 娘婿のルキウス・タルクィニウス・スペルブス/Lucius Tarquinius Superbus(傲慢王タルクィニウス)が義父の跡を継いで最後の王となります(在位BC534年 - BC509年)
完全な独裁政治を行ったことから傲慢王タルクィニウスと呼ばれています タルクィニウス家はローマから追放され ローマにおける王政は廃止となります
 
最後はどうやって滅んだの?
北はケルト人(Celti)が 南はマグナ・グラエキア/Magna Grecia(イタリア南部の古代ギリシア植民地) そしてサムニウム人/Sannitiが征服してゆきました

紀元前5世紀までにローマ人 ギリシャ人 カルタゴ人などの挑戦を受けるようになり 勢力が衰えてゆきました

エトゥルスキの実質的な衰退は 紀元前474年にシラクサに率いられていたギリシャ人たちがクーマ(Cuma)において決定的な敗北を与えた時に始まります

紀元前4世紀後半から かつて栄えていたエトゥルスキの商業・軍事の力は衰えてゆき 中央イタリアのもともとあった領地の中に守られた都市国家だけになってゆき とうとうそれらもまた 紀元前3世紀には 新しく生まれたローマ帝国に対する最後の戦いに巻き込まれてゆきました
国家としての強いアイデンティティを欠いた雄大な都市国家(citt à-stato)は次から次へと征服されてゆき 政治的な独立を失い ローマに併合され 最後は完全にローマ文化圏となり 消滅しました
けれどその名前は 現代イタリアのトスカーナ州(エトルリア人の土地という意味)として残りました
チェルベテリのエトルスキ美術館(Museo e Neclopoli di Cerveteri) は機会があったらぜひ訪れてください 

さて 2回目は エトルリアの文化、芸術、宗教等についてのお話です♪

参考: Wikipedia, 「世界史の窓 エトルリア人」 「イタリア・トスカーナ街路紀行 エトルリア文明について」 
La storia/Gli Etruschi
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そういえば...

LCI(吉祥寺)で2014年2月にもエトルスキ講座をやっていたのですね! そしてその時のリポートを 開始前に読んでから行きました(^_^)v

リポートは こちら



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