ブルーレコード1,2月号
ブルーレコード。
今月も、自分のコラム『昭和魂~あしたのTAKUYA~』を掲載していただいた。
今月も、自分のコラム『昭和魂~あしたのTAKUYA~』を掲載していただいた。
タイトル「一番怖いものは母の涙であったという現実」
そこをおとずれる現代の若者の目にそれはどのように映るのだろうか。
終戦間際の、戦況が悪化している中、戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと人間魚雷が考案され、兵器として採用された。
その兵器は、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いから「回天」と名付けられた。
その兵器は、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いから「回天」と名付けられた。
募集要項には、「特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの。」とだけ書かれていた。
ただならぬ作戦であることは想像できたであろう。
しかし、応募者は殺到した。
ほとんどが17歳から28歳までの海軍兵学校、海軍機関学校、予科練など出身の若者であった。
ただならぬ作戦であることは想像できたであろう。
しかし、応募者は殺到した。
ほとんどが17歳から28歳までの海軍兵学校、海軍機関学校、予科練など出身の若者であった。
全国から選ばれ大津島に集まった精鋭は競い合うように訓練に励み、約半年後に出撃が決まる。
出撃が決まると、最後の別れに2、3泊だけ故郷に帰ることが許された。
出撃が決まると、最後の別れに2、3泊だけ故郷に帰ることが許された。
極秘作戦であったがため、いや、家族を悲しませたくないためというのが本心であろう、「これから死にます」といえない中の最期の家族団らんを心の底から楽しんだ様子が日記に書かれているという。
1943年、出撃の朝、見送りの仲間に別れを告げて、回天を搭載している潜水艦に乗り込む。
潜水艦内でも回天の隊員は最上級の寝床を与えられ、そこで、残された家族や仲間のために日記や遺書を書く。
潜水艦内でも回天の隊員は最上級の寝床を与えられ、そこで、残された家族や仲間のために日記や遺書を書く。
「お母さん、私はあと3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。 が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
しかしお母さん。考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。このままだと戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好だったお母さんが死なれるから私が行くのですよ。 今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。だからね、お母さん、今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、お母さんの涙です。」
そして終戦までに計1375人が訓練を受け、145人が戦死した。
この話を読んで、自分はしばらく言葉が出なかった。。。
この話を読んで、自分はしばらく言葉が出なかった。。。
自分の祖父も、さらに戦局が悪化したこの翌年のビルマ(現ミャンマー)沖の海上の戦闘で命を落としている。享年29歳。
士官学校の指導教官をしていた祖父は、日本が絶体絶命の状況に置かれている中、圧倒的に不利な状況での出撃を承知で、残された部隊総出で出撃し、撃墜されている。
後年、自分は、なんと、その日に祖父の操縦する戦闘機“屠龍”の後部席(屠龍は二式銃戦闘機で二人乗り)に乗っていたという人を紹介していただく機会を得た。
遺族である自分と祖母は、市ヶ谷の駐屯地に呼ばれ、面会させていただいた。
遺族である自分と祖母は、市ヶ谷の駐屯地に呼ばれ、面会させていただいた。
その日の墜落の衝撃で足を片方失われたそうで、その戦いの壮絶さを、中学生だった自分には非常に衝撃的にうつった。
祖父は、その空中戦で戦闘中、銃撃を受けて、そのかたの呼びかけに応じなくなり、そのまま高度が下がり墜落したとのこと。
機体は畑に落ちて炎上。
そのかたは、ビルマの村人に看護され奇跡的に命を取りとめたという。
機体は畑に落ちて炎上。
そのかたは、ビルマの村人に看護され奇跡的に命を取りとめたという。
当時終戦が近く、非常に劣勢な状態だったが、それでも戦い続けた大変さを自分と祖母に語ってくださり、がんば れよ、と、最後に自分の頭をなでてくださった。
それから30年。
あの日、聞いた話は忘れない。
そして現在、自分がワクチンを寄付している先が、ビルマ(現ミャンマー)であるのは、偶然ではない気がしてならない。。。







