三島由紀夫「女ぎらひの弁」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 三島由紀夫(1925~1970)はエッセイ「女ぎらひの弁」(「新潮」昭和29年/ 1954年8月)で女性一般の傾向として、「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」と簡潔に「女ぎらひ」の理由をまとめていますが、その当否はともかくとして当時29歳・独身・作家歴12年の三島の才気はこうした端的な言語化能力の冴えにあるでしょう。昭和29年8月には、三島はすでに第一長篇小説『盗賊』(昭和23年/1948年11月刊)、第二長篇小説『仮面の告白』(昭和24年/1949年7月刊)、第三長篇小説『愛の渇き』(昭和25年/1950年6月刊)、第四長篇小説『青の時代』(昭和25年/1950年12月刊)、第五長篇小説『禁色』(第一部・昭和26年/1951年11月刊、第二部・昭和28年/1953年9月刊)、第六長篇小説『潮騒』(昭和29年/1954年11月刊、第1回新潮社文学賞受賞)を発表し、第七長篇小説『沈める滝』(昭和30年/1955年4月刊)、第八長篇小説『金閣寺』(昭和31年/1956年10月刊、第8回読売文学賞小説部門賞受賞)の構想・執筆に着手していました。また第二長篇小説『仮面の告白』以来専業作家になった三島は自分の通算小説には数えない娯楽小説も依頼があれば執筆しており、『金閣寺』までだけでも昭和25年/1950年12月刊の『純白の夜』(「婦人公論」連載)、昭和26年/1951年12月刊の『夏子の冒険』(「週間朝日」連載)、昭和28年/1948年3月刊の『にっぽん製』(「朝日新聞」連載)、昭和29年/1949年9月刊の『恋の都』(「主婦之友」連載)、昭和30年/1955年6月刊の『女神』(「婦人朝日」連載)、昭和31年/1956年1月刊の『幸福号出帆』(「読売新聞」連載)の大衆小説6作を発表しています。その上、昭和19年(1944年)10月の処女出版『花ざかりの森』以来『金閣寺』までに短篇小説集9冊、戯曲集1冊、評論集2冊、長篇紀行・エッセイ2冊を刊行していますから、昭和29年(1954年、三島29歳)6月刊の『潮騒』までに著作20冊、昭和31年(1956年、三島31歳)10月刊の『金閣寺』までに著作30冊と、30代を迎えてまもなくには三島由紀夫はほぼ全集規模の作品を書きあげていたとも言えます。

 45歳で自刃した三島の生前刊行著作はほぼ60冊ですが、16歳で天才少年作家として文壇デビューして以来30年間で60冊、生前単行本未収録作品・批評・エッセイを含み没後集成された全集では第一次全集36巻、第二次決定版全集44巻と、その著作は非常に膨大でした。三島自身が非常に計画的、かつ意識的に長篇小説を中心とした各ジャンルの著作を書いていたので、その全集は49歳で亡くなった夏目漱石(1867~1916、全集29巻)、65歳で亡くなった泉鏡花(1873~1939、全集29巻)、79歳で亡くなった永井荷風(1879~1959、全集31巻)、75歳で亡くなった谷崎潤一郎(1886~1965、全集30巻)、72歳で亡くなった川端康成(1899~1972、全集37巻)より浩瀚です。多作な大衆小説の作家はともかく、日本の文学者では森鷗外(1862~1992、60歳没、全集38巻)と折口信夫(1887~1953、66歳没、全集40巻+ノート編19巻)が三島の著作量に匹敵する程度ですが、軍医総監だった鷗外は翻訳家、医学者としての著作も多く含み、国文学者・民俗学者だった折口信夫の場合は「万葉集」の註釈・口訳や国文学・民俗学研究ら学問的著作が大半を占めますし、「ノート編」は大学での講義録なので、創作家としての著作の割合は鏡花、谷崎が上回ります。それでも創作作品の分量は三島由紀夫の方がさらに多いので、その超人的な創作力には圧倒されるしかありません。
 三島由紀夫は早くも昭和28年(1953年)7月~昭和29年(1954年)4月に『潮騒』以前の全長篇・自選短篇・戯曲をまとめた全6巻の『三島由紀夫作品集』(新潮社刊)があり、28歳、24歳時の出世作『仮面の告白』から5年目にしてその時点での全集が求められるという異例な人気を獲得していました。昭和32年(1957年)11月~昭和34年7月にはやはり新潮社から小説・批評・エッセイ・戯曲のジャンル分けのない19巻もの編年体著作集『三島由紀夫選集』が刊行され、『金閣寺』までの三島由紀夫の文業をまとめた実質的な全集として江湖に迎えられました。おそらく三島は28歳時の『三島由紀夫作品集』、32歳時の『三島由紀夫選集』の時点で、三島自身がのち昭和37年(37歳)~昭和43年(43歳)に刊行する『三島由紀夫戯曲全集』『三島由紀夫短篇全集』『三島由紀夫評論全集』『三島由紀夫長篇全集』(いずれも同一装幀、新潮社刊)に向けて計画的にジャンルごとにまとめられる全集構想を抱き、執筆していったと思われます。『戯曲全集』『短篇全集』『評論全集』『長篇全集』以降に書かれた晩年の戯曲が『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』であり、短篇小説が「英霊の声」「わが荒野」であり、評論が『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』であり、長篇小説が『豊穣の海』四部作だったと思うと、三島自身の企画・製作による自主映画「憂国」に主演しノーベル文学賞の候補に上り『豊穣の海』第一部『春の雪』を文芸誌連載し始めた昭和40年(1965年、40歳)、再びノーベル文学賞候補に上がり『豊穣の海』第二部「奔馬」を連載開始、『葉隠入門』を刊行した昭和41年(1966年、41歳)、昭和42年(1967年、42歳)には三たびノーベル文学賞候補に上がりながら自衛隊に初の体験入隊、昭和43年(43歳、1968年、この年には川端康成がノーベル文学賞を受賞し、三島は「これで次に日本人がノーベル文学賞を獲るのは25年後だ、どうせ大江健三郎が獲るんだ!」と友人たちに吐き捨てたといいます)には『三島由紀夫長篇全集』を完結し「楯の会」を結成、『文化防衛論』『太陽と鉄』を発表し自衛隊に学生たち30人とともに再度体験入隊、さらに『豊穣の海』第三部『暁の寺』の連載を始め、昭和44年(1969年、45)には「楯の会」維持費のために精力的にエッセイ・批評の依頼をこなしながら東大全共闘との討論会に参加し『春の雪』『奔馬』を刊行、没年の昭和45年(45歳)には政治活動をたしなめる友人・文学者仲間と決裂しながら7月に『暁の寺』を刊行、11月25日早朝に連載中の『豊穣の海』第四部『天人五衰』の最終回を家人に託して担当編集者に渡すよう指示するとともに、「楯の会」会員4名と市ヶ谷陸上自衛隊総監室に向かい自衛隊総監を監禁、バルコニーから檄文を撒き自衛隊発起のアジテーションを自衛隊員の罵声を浴びながら演説した直後に、古式に乗っ取り割腹自決し、三島の斬首介添人となった「楯の会」会員・森田必勝(1945~1970)も後を追って割腹自決しました。晩年5年(とはいえまだ40歳~45歳)の三島は全四部の遺作長篇『豊穣の海』の完成に合わせて自決に向けて歩んでいたかのようです。歴史に「もし」が考えられるなら、ノーベル文学賞を受賞したのが師の川端康成ではなく受賞を熱望していた三島であったら、事態は変わっていたかもしれません。

 三島はロレンス・ダレル(1912~1990)の四部作の大長篇『アレクサンドリア四重奏』(1957~1960年)をトーマス・マン、マルセル・プルーストに匹敵する現代文学の最高峰として羨望していました。『豊穣の海』は新たなノーベル文学賞受賞作家の代表作としての抱負を持って着手されたと想像されます。それは森鷗外をもっとも尊敬する作家として、鷗外のように「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」の対極にある文学作品を目指したものでした。つまり「完璧な構成力、慎重に抑揚された感受性、瑣末主義に陥らない具体性の取捨選択、俯瞰的な(高次の)現実主義」といったところです。三島由紀夫が29歳で発表したエッセイ「女ぎらひの弁」はいわば「女ぎらひ」に反語的に託した三島の文学的マニフェストだったことがわかります。
 三島自身が23歳の第一長篇『盗賊』を失敗作と目していたのも、そこではまだ「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」の残滓が残っていたからでした。24歳の第二長篇『仮面の告白』こそ長篇小説の最初の自信作であり、それゆえに三島は失敗作『盗賊』を生前の著作集・全集から除外せず、『盗賊』から『仮面の告白』への生まれ変わりを明確にしておきたかったのでしょう。また三島は文学作品として書いた著作は文学者仲間の友人・知人に献呈しましたが大衆小説は一切送らず、友人の批評家がジャーナリズムからの依頼で三島の大衆小説を批評に取り上げると露骨に不満を表明した(奥野建男『三島由紀夫伝説』)そうです。「楯の会」結成前後から三島由紀夫の著作・言動は極端に政治的になり、従来太宰治嫌いを公言していた三島に対して友人のフランス文学者から「最近の君は太宰と同じじゃないか」とたしなめられると三島は「そうさ、俺も太宰と同じだよ!」と開き直り、「君こそ頭の中の攘夷を済ませる必要がある」(晩年に向かうにつれて、三島は外国語に堪能な批評家・作家たちに嫌悪を示すようになっていました)とも、「おれのことは何を言われようがいい。しかし妻と子供たちはなあ……」ととも激しい喜怒哀楽を示していた(村松剛『三島由紀夫の世界』)といいます。石原慎太郎とは口論になり、激昂した三島は日本刀で石原に斬りかかりましたが、三島の腰は据わっておらず石原は身じろぎもせずに頭上の柱に日本刀がめり込むのを受けた、という証言を残しています。三島は生前に正式な受診を受けていませんが、精神医学的には病跡学的研究によって演技型パーソナリティー障害が指摘されており、人格障害(パーソナリティー障害)は精神病の指標にはならず性格分類に留まるものですが、おそらく夏目漱石、三島が尊敬して止まなかった坂口安吾(安吾の場合は生前に専門医によって明確に診断されています)同様、少なくとも双極性障害との境界が想像され、もし晩年5年間躁状態が維持されていたとしたら破滅的行動を迎えたのも止むなしでしょう。作品において「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」に断固として抵抗した三島の内面は、晩年に向かってまさに「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」そのものに突入していたと考えられるだけに、あの酸鼻な最期も、遺稿『天人五衰』の虚無的な結末も、三島一生の無理が一気に自己崩壊を起こしたものとも取れます。