安西冬衛「贋造の仏陀と四十一人の仏弟子」(昭和18年/1943年) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

安西冬衛・明治31年(1898年)3月9日生~
昭和40年(1965年)8月24日没
詩集『大學の留守』昭和18年(1943年)12月
東京湯川弘文堂刊


 贋造の仏陀と四十一人の仏弟子
 安西冬衛

市俄古万国博覧会に出陳された仏陀に、当事従つた四十一人の仏弟子

仏羅里達

若耳治

加羅里那

勿吉尼

辺西珪尼

馬利蘭

新約克

珪門

新牢什


麻紗朱色

千尼底克

羅底島

執安

倭海呵

音底阿那

根大基

典尼西

阿拉巴麻

密士失必

魯西阿那

亜干薩

密梭里

伊里奈

威士干心

密尼素大

衣呵華

達哥華

達哥荅

拿布拉斯格

干薩

得撤

哥羅拉度

維阿明

蒙荅那

伊達何

尼哇達

亜里瑣那

哇申頓

阿里顔

加利福尼

島達

これら縮れた毛髪に富む群像の上に、人よ解けぬ大雪山(ヒマヴァット)を幻に描け。

(詩集『大學の留守』昭和18年/1943年12月刊より)
 奈良県生まれ、文部省勤務の父に従って東京麹町富士見町で小学校までを育ち、大阪府堺市で旧制中学時代を過ごしたのち父の転勤ともども満州国大連で鉄道省に勤め、23歳で間接疾患から右脚を失った詩人・安西冬衛(1898-1965)は、詩友となった詩人・北川冬彦(1900-1990)らとともに満州と東京の同人を含む同人詩誌「亜」を創刊、のちに東京のモダニズム詩誌「詩と詩論」に加わり、初期の代表作となった一行詩「春」(「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」)を含む傑作第一詩集『軍艦茉莉』(昭和4年/1929年4月刊)で日本のモダニズム詩運動の最前線に立った詩人です。第一詩集にして完璧な完成度と独創性を備えた『軍艦茉莉』は同年10月刊の北川冬彦詩集『戦争』、翌年の三好達治詩集『測量船』(昭和5年/1930年12月刊)と並ぶ大反響を呼び、安西冬衛はさまざまな詩誌から引っ張りだこの詩人となりました。満州鉄道を退社し結婚・帰国していた安西冬衛は堺市に定住して文才を生かして市役所の広報係となり、昭和8年(1933年)には4月に第二詩集『渇ける神』、6月に第三詩集『亜細亜の亜細亜の鹹湖』と詩集を重ねるたびにマニエリスム的な言語マニア的作風に移っていきます。市役所勤務のかたわら新聞連載小説、エッセイなど文筆業の比率も高くなっていた安西冬衛の、昭和18年(1943年)12月の第四詩集『大學の留守』は戦局の押し詰まる中刊行され、敗戦後の第五詩集『韃靼海峡と蝶』(昭和22年/1947年8月刊)、第六詩集『座せる闘牛士』(昭和24年/1949年11月刊)、没後の『安西冬衛全詩集』(昭和41年/1966年8月刊)にまとめられた詩集4冊分もの未刊詩集『死語発掘人の手記』へとつながる安西冬衛独自の言語マニア的作風の決定的な転機になりました。これほど戦時色と無関係で、徹底した芸術至上主義(しかも最尖端の前衛文学!)の詩集が敗戦の1年半ほど前によく堂々と上梓できたものです。

 この詩篇「贋造の仏陀と四十一人の仏弟子」は発表誌をつまびらかにしませんが、よくまあこんなうさんくささと紙一重な詩を思いついたと呆れるばかりです。原文の縦書き(縦書きだからこそ立ち並ぶ「仏弟子」たちというイメージが鮮明になるわけですから)を横組みに置き換えると効果は半減してしまいますが、「四十一人の仏弟子」の名前は行末揃えになっており、ずらりと41人の僧名が並びます。読みルビなしに並ぶこの41人の名前がアメリカ合衆国の州名(2024年現在では50州ですが)なのはすぐに気づくことですが、一見してすぐわかる「仏羅里達」(フロリダ)や「加羅里那」(カロライナ)、「辺西珪尼」(ペンシルヴァニア)、「伊里那」(イリノイ)などに並んで、頭をひねらないと読めない、変換機能のいかれたAIが吐き出したような宛字がぞろぞろ出てきます。「贋造の仏陀」たるゆえんです。「新約克」など新約聖書マタイ伝とかけてマサチューセッツと読む、などすぐにはわかりません。その挙げ句、下げの文句は「これら縮れた毛髪に富む群像の上に、人よ解けぬ大雪山(ヒマヴァット)を幻に描け。」です。なんともとぼけた、一体これが詩なのかと言えば、アメリカの州名の宛字にされた漢字の羅列によって「四十一人の仏弟子」が並ぶさまが浮かんでくるわけで、これも類を見ない詩的効果なのは認めずにはいられません。これは漢字文化圏の読者にしかわからず、しかも音読み・訓読みの共存した日本語圏の読者にしか通用しない、しかし確実に日本語圏の読者を幻惑する言語遊戯の極みにある詩篇でしょう。没後の『安西冬衛全詩集』刊行時には澁澤龍彦がかねてより愛読する詩人として絶讃する書評を寄せましたが、奈良~東京~大連~堺市と移り住んできた安西冬衛には独特のコスモポリタン的感覚があり、マニエリスム的言語マニアであっても(だからこそ)意表を突いた官能的感覚があります。異国情緒的エロティシズム色の強い第一詩集『軍艦茉莉』からそれは始まっていましたが、この詩でも淡々と造語的僧名を並べておいて、最後に「これら縮れた毛髪に富む群像の上に、人よ解けぬ大雪山(ヒマヴァット)を幻に描け。」と締めると、雪山に重ねられた如来像の螺髪(右巻きに渦巻いた頭髪)のイメージが突然肉感的な存在感を持って迫ってきます。これは「詩と詩論」の盟友だった北川冬彦や三好達治には乏しかったユーモア感覚で、「詩と詩論」が表敬していた先輩詩人で、やはりすっとぼけた西脇順三郎の詩とともに、戦後の吉岡実らに受け継がれるグロテスクな現実誇張による現代詩の技法となります。こんなものは詩ではない、ましてや文学ではないという感想を抱かれる方も多いでしょう。しかしこれは本質的には抒情詩、しかも設定と名詞の羅列のみで構成するという極端に簡素な手法ながら、措辞においては凝りに凝るという矛盾を軽々とこなした、読者の知性と感性をあなどらず大らかな笑いに落としこんだ、並大抵ではない詩篇です。ぜひこの「四十一人の仏弟子」の人名を読み解いていただきたいものです。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)