シド・バレット、「独りぼっちの狂気」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。



 本日はピンク・フロイドについてのお話です。フロイドというと代表作は「世界で3番目に売れたアルバム」『狂気 (The Dark Side of the Moon)』(Harvest, 1973)ですが(世界一はマイケル・ジャクソンの『スリラー』1億枚、二番目は『イーグルス・グレイテスト・ヒッツ Vol.1』5千2000万枚、三番目は『狂気』、イーグルス『ホテル・カリフォルニア』、AC/DC『バック・イン・ブラック』が5千万枚タイ)ですが、ピンク・フロイドは心理的誘導が上手いサウンド作りがいちばんの武器でした。どよんとした曲、騒がしい曲、もろ鬱な曲、メロウな曲が巧妙にアルバムに配置されて、アルバム全体は悪夢から目覚めた時のような仕上がりになっています。1975年の次作『炎~あなたがここにいてほしい (Wish You Were Here)』の人気曲、「Wish You Were Here」もきれいなアコースティック・バラードですが、陰鬱な曲、狂躁的な曲、虚無的な曲に挟まれて突然これが来るので曲単位で聴くのとアルバム通して聴くのでは印象がまるで違います。 

 ピンク・フロイドはセカンド制作中に脱退した当初のリーダー、シド・バレット(1946-2006)が仕切ったデビュー作だけモッズ系のバンドで、1967年のファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き (The Piper At The Gates Of Dawn)』(日本初発売時の邦題は『サイケデリックの新鋭』)とシド在籍時のシングルはスウィンギング・ロンドンのサイケデリック・ポップの古典となってます。フロイドの当初のリード・ヴォーカル、ギタリスト、ソングライターはメンバー中一番年少のシドでした。この曲「エミリーはプレイ・ガール」は全英6位の大ヒットになった曲です。ザ・フーをサイケに極振りしたようなチャーミングな実験的ポップ・ロックです。

 ファースト『口笛吹き』はシドの才能の爆発した佳曲揃いで、ビートルズが『サージェント・ペパーズ』録音中のアビーロード・スタジオの別室で同時期に制作され、ビートルズのメンバーも「面白い新人バンドが来たぞ」と見学に現れたそうです。アルバム収録曲より「ルシファー・サム」(シドの飼ってたシャム猫の名前だそうです)。 

 日本盤やアメリカ盤LPではずっと「エミリー」が追加されていたので、本来のLP最終曲「バイク」の後に追加収録されていたのがアナログLP時代からのリスナーには印象的でしょう。この「バイク」もアルバムを代表する、シドならではのポップなサイケデリック感覚の光る佳曲です。 

 デビュー・アルバムも全英6位と好調、順風満帆に見えたデビューをしながら、シドはLSDの常用でライブもしどろもどろ、奇行が目立つようになり、ブライアン・ウィルソンがライヴを引退しスタジオのみの参加になったビーチ・ボーイズ流に、ライヴではデイヴィッド・ギルモアをギタリストにすることにしたフロイドですが、1968年のセカンド『神秘 (A Saucerful of Secrets)』はついにシドが曲も書けず演奏もできずの状態で制作途中で脱退、以降フロイドはベーシストのロジャー・ウォーターズがソングライター兼リーダー(ヴォーカルはウォーターズとギルモア半々)になって続いていきます。シドは2枚のソロ・アルバムをウォーターズやギルモア、リック・ライト(キーボード)のプロデュースで出しますが、バンドとのセッションすら不可能なほど病状が進行していたので、シドのエレキギター弾き語りに後からオルガン、ベース、ドラムスをダビングするという奇手で何とか乗りきるも、ついにシドは意思疎通すら不可能な慢性的統合失調症になって、25歳で引退した後は60歳で亡くなるまで完全に音楽界から姿を消します。先ほどの「Wish You Were Here」は、レコーディング中に突然シドが尋ねて来た時のことを歌った曲だそうです。シドのソロ2作もシドならではのサイケ・ポップのアルバムで、次の曲のドラムスはジェリー・シャーリー(ハンブル・パイ)ですが、LSDでぶっとんだ状態のシドのデモテープに後からバックをダビングしたためオルガン、ベース、ドラムスともあちこちでリズムが崩れる、という怪曲になっています。 

 ピンク・フロイドのセカンドにはシドの演奏は全7曲中2、3曲しか採用されていませんが、セカンド『神秘』はシド脱落を振り切って新加入のギルモア含めてメンバーが全力を出した実験的サイケデリック・ロックの傑作で、シド脱落のためモッズ色がほぼ完全に消えた分、のちのクラウトロックやスペース・ロック系バンドに決定的な影響を与えたアルバムになってます。ピンク・フロイドは全アルバムが力作ですが、ウォーターズの実験的コンセプトとシドに代わったギルモアのポップ・センスがバランスが取れた時に良いアルバムを作っています。ウォーターズ、ギルモア、ライト、ドラムスのニック・メイソンと四人とも曲が書けるのがフロイドの強みで、ぼくも好きな曲がたくさんあり、ストーンズやツェッペリンと並んで海賊盤発掘ライブを80枚くらい集めました。ギルモアはもともとオーソドックスなブルース・ロック系ギタリストなのでシドのようなエキセントリックな天才ではないでのすが、ギルモア作のこの曲なんかもイギリスの田舎のたそがれムードで、いい感じです。 

 これなども。邦題は「デブでよろよろの太陽」です(笑)。 

 本来『口笛吹き』と『神秘』のCD化には「エミリー」を始めボーナス・トラックでシド時代の曲を網羅して、せっかくなら1967年3月のデビュー・シングル「アーノルド・レイン」(全英20位、女性の洗濯物を下着泥棒して自宅で女装する男の歌、同じテーマのザ・フー「リリーのおもかげ (Pictures of Lily)」へのアンサー・ソングでしょう)、シド在籍時最後のシングル「アップルズ・アンド・オレンジズ」、シド脱退のため長いことお蔵入りになっていた幻のシングル「スクリーム・ザイ・ラスト・スクリーム」もCDボーナス・トラックでさらに追加収録されていたら、シド在籍時の決定版になるのですが、ピンク・フロイド側はCD化以降断固としてオリジナルのイギリス盤通りの収録曲に統一しています。 

 XTCものちに同じタイトルのアルバムを出した「アップルズ・アンド・オレンジズ」はシド作ですが、もうまともに歌も演奏もできなくなっていたので、ギルモアが加わり、ヴォーカルはウォーターズが取っています。そのB面「絵の具箱」はライト作詞作曲で、プロモ・ビデオが面白いです。プロモ映像(シドは脱落して映っておらず、ギタリストはギルモアだけ)で観るとなかなか渋い佳曲です。

 シド脱退でお蔵入りになった「スクリーム・ザイ・ラスト・スクリーム」はもう明らかにいかれていて、バンドから脱落後の、ソロになってからの曲調に移っています。 

 フロイド在籍時最後の幻の発売中止シングル「スクリーム・ザイ・ラスト・スクリーム」のB面曲「ヴェジタブル・マン」。 

 シドは抜群のソングライターで、とぼけたヴォーカルもドライブ感のあるギターも魅力的で、ドラッグ常用で発病しなければ大成していたはずの才能でした。ただシドが脱落しなければその後のフロイドもなかったので、シド脱退=脱モッズ化が歴史を分けたと言えます。5年ぶりにフロイドのスタジオに現れたシドは糖尿病も併発して肥満しきってパジャマ姿で「さあ、これからレコーディングしよう!」(録音に呼ばれたと幻覚で思いこんでいたようです)と完全に狂人と化していて、フロイドのメンバー全員は大ショックを受け、居合わせたスタッフにはただの狂人にしか見えなかったそうです。
 シドのソロ2枚『幽玄の世界~帽子が笑う…不気味に (Madcap Laugh)』『シド・バレット・ウィズ・ピンク・フロイド~その名はバレット (Barrett)』(ともにHarvest/EMI, 1970)はどちらもシド・ワールド全開ですが、ぼくは一時小康状態でバック・バンドのダビングも成功した『その名はバレット』の方が曲も演奏もポップで好きです。このソロ2枚をそのままカップリングした1974年の『何人をも近づけぬ男 (The Madcap Laughs & Barrett)』 は『口笛吹き』とともに高校生の頃の愛聴盤で、レコードを貸し借りするロック好きの友人・知人の誰に貸しても不評でしたから、いっそう愛着が湧いたものです。邦題「カメに捧げる詩」「タコに捧げる詩」を引きましょう。 

 先に引いた「アップルズ・アンド・オレンジズ c/w 絵の具箱」は1968年のセカンド『神秘』セッションでのシングルAB面曲で、本来ライヴでのシドの代役予定のためにデイヴィッド・ギルモアが加入するもシドがまったく曲も書けず、歌も演奏も支離滅裂と病状が悪化したために、ウォーターズがリーダーとなってギルモアを正式メンバーとし、実質シド抜きの四人でバンドを継続することになった頃の曲です。そしてフロイドは1983年に一旦解散するまでシド抜きの四人でアルバム11作を制作し、ロック界五指に入る大セールス、世界で8番目のレコード売り上げを誇るバンドになります。

 アメリカ盤『口笛吹き』で「エミリー」の代わりにオミットされたイギリス盤1曲目の代表曲「天の支配 (Astronomy Domine)」はスタジオ盤では5分弱ですが、シド脱退後ライブでは10分~30分に渡ってフロイド解散まで演奏され続けた曲で、フロイドにはスタジオ盤では普通の長さの曲が10分~40分かけてライブ演奏される曲がざらにあります。フロイドの海賊盤発掘ライブが集めがいがあるのはスタジオ盤とアレンジや演奏時間がまったく違うからです。オリジナル盤を聴いてからこそ発掘ライブの面白みもわかるので、最初に『口笛吹き』から聴くのはいちばん親しみやすいでしょう。 

 フロイドから脱落したシド・バレットもソロ・アルバムではバレット節全開なので、『帽子が笑う…不気味に (Madcap Laugh)』『その名はバレット (Barrett)』、1988年に発表された『帽子~』『その名は~』セッションの未発表曲・別テイク集『オペル (Opel)』の3枚でソロ時代のシドはコンプできます。『口笛吹き』と『神秘』、ソロ時代の3枚、それきり。ソロ2作を発表した後は完全に音楽活動不可能になってしまい、お母さんに看護されながら田舎で暮らしていて、お母さんの没後は併発した糖尿病の悪化で片足を切断、60歳で亡くなるまで完全に沈黙を守りました。晩年こそ小康状態を取り戻したものの、ドラッグを止めても慢性化した統合失調症は改善せず、悪化する一方だったようです。
 ウォーターズがリーダーになった『神秘』でフロイドが発明した手法は、楽曲から曲の要素を最小限のシンプルな核にして、楽器をいわゆる演奏ではなく音響発生装置として使い、要の部分だけギルモアのギターやライトのキーボードをフィーチャーする、という手法でした。この手法を突きつめて1969年の第4作『ウマグマ (Ummagumma)』を全英No.1アルバムに大ヒットさせたバンドは、抒情的な要素とアバンギャルドな要素をさらに発展させてアルバム片面1曲に成功した1970年の第5作『原子心母 (Atom Heart Mother)』、1971年の第6作『おせっかい (Meddle)』でさらに人気を固め、1973年の第7作『狂気 (The Dark Side of The Moon)』で全米始め欧米諸国No.1の大ヒットに達するとともに、このアルバムでAB面全11パートで1曲、と以降解散まで続けるアルバム1枚メドレーで1曲という手法を確立します。『狂気』はアルバム・チャートイン連続800週(約14年)、現在まで売り上げ5千万枚(レコード史上3位)のモンスター・ヒット作になりました。シド・バレットがスタジオに突然訪ねて来たのも1975年の次作『炎~あなたがここにいてほしい (Wish You Were Here)』制作中の出来事です。ウォーターズが全曲ヴォーカルを取った1977年の次作『アニマルズ (Animals)』までの1967年から1977年まで、フロイドは年間150公演以上(毎年2回のワールド・ツアー)を行ってきて、ストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリン以上の観客動員数を誇るバンドになっていました。徹底した人間不信のウォーターズが「俺たちの演奏なんか誰にも伝わっちゃいないんだ!」と人間関係の断絶をテーマにしたLP2枚組力作の第10作『ザ・ウォール (The Wall)』を発表したのが1979年で、バンド内の人間関係も最悪になり、世界ツアーでは客席とバンドの間にブロック塀が建てられ(曲が進むにつれ壊れていきます)、ライブ前半ではセッション・ミュージシャンがフロイドのコピー演奏をして後半徐々にメンバーが入れ替わる、という演出をして賛否両論呼んだのは1980年~1981年の『ザ・ウォール全曲演奏ツアー』です。あまりに巨大なステージセットとマネジメントの経済運営の悪化で結局バンド内の人間関係はほぼ完全に崩壊し、ツアーも行われなくなり、第11作でウォーターズ自身が解散アルバムとして制作した1983年の『ファイナル・カット (The Final Cut)』は実質ウォーターズのソロ・アルバムでした。長々と書いてしまいましたが、昨日~今日、400ページものフロイドのヒストリー本『ピンク・フロイド 神秘』(1993年刊、ニコラス・シャフナー著、今井幹晴訳)を読み返していたのです。

 クレジットに「全作詞=ロジャー・ウォーターズ」と名銘って完成させた『狂気』の大ヒット以降ウォーターズ独裁体制が1作ごとに強まり、特に看板ギタリストで半数の曲の作曲とヴォーカルも取るギルモアとの対立が人間関係を悪化させ、『ザ・ウォール』制作中にはバンド内で一番穏健な性格でサウンド構築に貢献の高いリック・ライトをウォーターズが一方的にクビにしセッション・ミュージシャンの一人に降格させたため一気にバンドが崩壊してしまいます。'80年代後半からはギルモアとニック・メイソンがライトを含むゲスト・ミュージシャンを加えてピンク・フロイド名義で再活動し始めたためにウォーターズvs.他のメンバーの名義訴訟合戦が始まり、ギルモアの新ピンク・フロイドの方が名義継承権を勝ち取り(残りメンバーが三人いたため)、ウォーターズの方はソロ・アルバムの売り上げもツアー動員数もギルモアズ・フロイドに惨敗、と今でも確執は続いています。これらすべてはシド脱落後のピンク・フロイドに起こった出来事で、シドがリーダーだったデビュー作『口笛吹き』だけは生まれたての赤ん坊の頃の写真のようにぽつんと孤立しています。シドというアイドルがいたデビュー作当時と、スター性のあるメンバーが一人もいないセカンド以降のフロイドは極端に断絶しています。本来シド脱退後のフロイドのようなスターのいないバンドがストーンズ、ザ・フー、ツェッペリンと並ぶモンスター・バンドになったこと自体が不思議でしょう。ただ、シド脱退後でもフロイドには'60年代的感覚があり、そこら辺が大きな存在感の理由になっています。昨日は『口笛吹き』、今日は『神秘』をずっと聴いていましたが、シドはスタジオに来ただけでほとんど演奏不可能だったと言われる割にはスタジオ内にシドがいる、ただしもうシドには頼れないというメンバーたちの緊迫感が『口笛吹き』と『神秘』の2作の連続性になっていて、バンドの実態としては断絶しても、サウンドのもたらす雰囲気は案外共通しているのです。この初期2作は『狂気』大ヒット時に2枚組『ナイス・ペア (A Nice Pair)』として新装再発されましたが、ポップなA面、実験的なB面のシングルのようにこの2作をまとめて聴くと、初めて聴くリスナーにはそれほど違和感がないかもしれません。また、冒頭に引いたヤフーニュースの記事では後任ギタリストのギルモアとシドには禍根を残す間柄だったように見えますが、実際にはシドのソロ・アルバム第1作はウォーターズとギルモア、2作目はライトとギルモアがプロデュースと、もっともシドのソロ活動に尽力したのはギルモアなので、「(シドの生前に)会いに行かなかったことを後悔している」とは年間150公演以上のツアーをこなすとともにフロイドのアルバム制作にも多忙を極めた1970年代以降の時期(またギルモアが新生フロイドのリーダーになって、シドが没する2006年まで会いに行く機会がなかった時期)のことと思われ、現在ソロ活動を行っているギルモアはライヴでは毎回「ドミノ」を取り上げています。今年2024年5月17日からシド・バレットのドキュメンタリー映画『シド・バレット 独りぼっちの狂気』が日本公開中のようですが、ミュージシャンとしてのシドの再評価は今後いかなるものになるでしょうか。 


(旧記事を手直しし、再掲載しました。)