谷川俊太郎『二十億光年の孤独』(昭和27年/1952年)より | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

谷川俊太郎(昭和6年/1931年12月15日生~)
詩集『二十億光年の孤独』創元社・
昭和27年(1952年)6月刊


 かなしみ

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 飛行機雲

飛行機雲
みたされぬあこがれに
せい一杯な子供の凱歌

飛行機雲
それは芸術
無限のキャンパスに描く
はかない賛美歌の一節

(この瞬間 何という空の深さ)

飛行機雲
そしてーー
春の空

 地球があんまり荒れる日には

地球があんまり荒れる日には
僕は火星に呼びかけたくなる

 こっちは曇で
 気圧も低く
 風も強くなるばかり
 おおい!
 そっちはどうだあ

 月がみている
 全く冷静な第三者として

 沢山の星の注視が痛い
 まだまだ幼い地球の子供よ

地球があんまり荒れる日には
火星の赤さが温かいのだ

(以上3篇、詩集『二十億光年の孤独』より)

 巻頭に三好達治の序詩「はるかな国から/――序にかえて」が寄せられ、全50篇が収められた、谷川俊太郎(1931~)21歳の第一詩集『二十億光年の孤独』より。短い「あとがき」には「一九四九年冬から一九五一年春頃までの作品から選んだ。排列はほぼつくった順である。/一九五二年四月/谷川俊太郎」とありますので、作者17才から20歳までの作品集ということになります。今回引いた3篇は詩集11篇目から13篇目に収められていますから、18歳頃の作品と思われます。テキストは既刊8詩集と新作詩篇を収めた昭和40年(1965年)1月(まだ34歳になったばかり!)の最初の全詩集『谷川俊太郎詩集』(思潮社刊)に依りました。

 やはり思潮社から刊行された、『谷川俊太郎詩集』以降の既刊7詩集と新作詩篇を収めた谷川俊太郎48歳時の第二の全詩集『続・谷川俊太郎詩集』(昭和54年/1979年刊)も併せて繙読し、特に昭和50年(1975年)に同時刊行された、対をなす抒情詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社刊)、散文詩集『定義』(思潮社刊)は初めて読んだ谷川俊太郎の詩集だったので、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』の巻頭詩、

 そして私はいつか
 どこからか来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ
 (「芝生」全行)

 ――とともに、詩集『あなたに』(創元社・昭和35年/1960年刊)の著名な、

 裏返せ 俺を
 億の中の畠を耕せ
 億の中の井戸を干せ
 裏返せ 俺を
 俺の中身を洗ってみな
 素敵な真珠が見つかるだろう
 裏返せ 俺を
 億の中身は海なのか
 夜なのか
 遠い道なのか
 ポリエチレンの袋なのか
 裏返せ 俺を
 (下略、詩篇「頼み」)

 ――や、大江健三郎が絶讚し、長編小説『万延元年のフットボール』(昭和42年/1967年)のモチーフとした、

 何ひとつ書くことはない
 私の肉体は陽にさらされている
 私の妻は美しい
 私の子供たちは健康だ

 本当の事を云おうか
 詩人のふりをしているが
 私は詩人ではない
 (下略、詩篇「鳥羽」)

 ――なども思い出されます。

 谷川俊太郎の第一詩集『二十億光年の孤独』は、三好達治が序詩を寄せたように、三好自身の第一詩集『測量船』(昭和5年/1930年刊)の系譜を継ぎ、今や『測量船』に取って替わって現代詩の標準を示す模範になった詩集でしょう。しかしこれら「かなしみ」「飛行機雲」「地球があんまり荒れる日には」を、のちの「頼み」「鳥羽」「芝生」などの''60年代詩篇、'70年代詩篇と読み併せてみても、谷川俊太郎の詩は「僕」「俺」「私」のことばかりしか語っていない、関心がないように読めます。『落首九十九』(朝日新聞社・昭和39年/1969年)や『ことばあそびうた』(福音館・昭和47年/1972年)を筆頭とした言語遊戯的作品だってあるではないか、作詞家としても悲痛な反戦歌「死んだ男の残したものは」や、昭和37年(1962年)にレコード大賞作詞賞を受賞した「月火水木金土日のうた」があるではないかという反論もあるでしょう。しかし谷川俊太郎の言語遊戯はアヴァンギャルド指向の詩人のように未知の世界を切り開くよりも身近な言葉の操作に遊びを工夫したものですし、反戦歌「死んだ男の~」も発見というより叙述の歌であり、「月火水木金土日のうた」にいたっては才気はあふれているものの、結局は面白い自己紹介の歌にすぎません。「頼み」(「裏返せ 俺を」)、「鳥羽」(「本当の事を云おうか/詩人のふりをしているが/私は詩人ではない」)、「芝生」(「だから私は人間の形をし/幸せについて語りさえしたのだ」)についても、谷川俊太郎の発想は自他への問いかけではなく、一方的な自己紹介にすぎません。一方的な語りかけの文言とは問いかけではなく「広告」にすぎず、それは第一詩集の18歳時の詩篇「かなしみ」「飛行機雲」「地球があんまり荒れる日には」からそうで(著名な詩集表題作「二十億光年の孤独」を含めてもかまいません)、谷川俊太郎の詩篇には想像力に富むようでいて実は稀薄で、これらの詩篇は作者にとって既知なこと(とりわけ作者自身)を気の効いたレトリックで「詩」にまとめただけとも言えます。むろん谷川俊太郎にも自己以外の外界が存在する意識はあるでしょう。しかし谷川俊太郎の「詩」ではそれらもすでに作者の手の内に入った時点でしか描かれる対象にならないのです。

 それが顕著なのは「鳥羽」で、「何ひとつ書くことはない/私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい/私の子供たちは健康だ」はいずれも疑問の余地なく断言されます。真の詩は懐疑と問いかけから始まるとすれば、この第一連は「すでに何ひとつ書くことはない/私の肉体は陽にさらされている/私の妻は美しい/私の子供たちは健康だ」は、もっと不吉な響きを備えてしかるべきでしょう。しかし谷川の発想はすべて断言肯定命題なので、ここではすべてが強く肯定されます。だからこそ「本当の事を云おうか/詩人のふりをしているが/私は詩人ではない」のです。ここでは懐疑し、問いかけ、発見しようという発想がないからこそ、「私は詩人ではない」のです。これは梶井基次郎、北川冬彦、丸山薫ら鮮烈な感覚の詩友たちに感化された三好達治の『測量船』の、鋭敏な戦慄から後退すらしています。伝統的な短歌、俳句などの短詩型定型詩をも含めて、明治開化以降の現代においてもはや「詩」は自明の形式ではないのです。『測量船』は日本の現代詩が大正時代に確立した口語詩に、外来のモダニズム、シュルレアリスム詩の影響と交差して生まれた実験的詩集でした。三好自身の被虐的感性からその詩は不安と虚勢に満ちた、幻惑的な恐怖すら全編に湛えたものでした。しかし大学総長の父と衆議院家の母の長男に生まれ、知識人と政界人の間の上流階級に育った谷川俊太郎の詩は、自己肯定感を前提とした少年らしい屈託のなさと才気によって父の友人、三好達治に認められたのです。おそらく三好にとって谷川俊太郎は、戦後にして初めて現れた「傷ついた過去を持たない少年」としてまばゆいばかりの青年詩人に見えたでしょう。そこが新しかったのです。しかし「かなしみ」を典型に、自己のことしか語らない谷川俊太郎の詩は不毛の観を免れず、75年あまりをかけてなお書かれ続けている自選詩集や全詩集、普及版選集を含む110冊あまりの詩業は、もし詩の本質やその存在意義を問うなら、そのことごとくが「詩」と言えるか疑わしいものです。御歳92歳にしてなお現役の、海千山千の詩人に若造が言えたものではありませんし、日本を代表する文学者としてノーベル文学賞を与えられても異議のない業績を誇る詩人には違いありませんが、精一杯お手柔らかに接しても、谷川俊太郎の詩は「詩」未満の産物、偽物の「詩」と見る方がすっきりします。もちろん広い「文学」の世界にはそうした「詩」があってもかまわないので、それは谷川俊太郎フォロワーの寺山修司(谷川氏は寺山氏の葬儀委員長を勤めましたが、寺山君のデビュー当時から「俺の真似ばかりしやがって!」と難じていたのはよく知られています)においてさらに顕著であり(短歌・俳句はともかく、寺山修司詩集を賞賛する詩人は皆無です)、その安易さ、古くささ、通俗性、陳腐さゆえに谷川俊太郎詩集、寺山修司詩集は広い読者を獲得しているように思えます。

(追記)
>○○さん、コメントありがとうございます。少し批判的なニュアンスが強く出た文章になってしまったので先ほど少々書き加えましたが、広い「文学」や「詩」の世界には谷川俊太郎さんのような詩があってもいいので、決して谷川さんの詩を全面的に批判する意図はありません。谷川さんは北原白秋、三好達治を継いで国民的詩人と呼べる風格のある詩人でしょう。白秋や三好達治が60歳前後で亡くなっているのを思えば、90代にしてなお現役の谷川俊太郎さんは驚くべき存在です。

処女詩集『二十億光年の孤独』がほぼ75年前の詩集というのも驚くべきことで、習作期と言える同人誌活動も詩誌への投稿時代もなくいきなり二十歳で詩集デビューするや一躍一流詩人と認められた詩人など、谷川俊太郎以外に類を見ません。そういう意味では明治以降150年の日本の詩の歴史は『二十億光年の孤独』以前と以後で分けられる、と言ってもいいほどです。

『ことばあそびうた』からの「かっぱかっぱらった」Tシャツを着た谷川さんの近影は、日本語版ウィキペディアからお借りしました。本文の主旨からすれば二十歳頃の肖像写真を用いたかったのですが、手元の詩集にもサイト上の画像にも見当たらなかったのです。しかし谷川俊太郎さんの作風は75年間一貫しており、この際かっこいいこの近影画像でいいかと思って載せました。谷川さんの才能は何を書いてもポピュラリティーの高い詩になってしまうところにあり、「かっぱかっぱらった」Tシャツの近影は一発で谷川さんの才人ぶりを伝えます。詩集『二十億光年の孤独』の装幀もかっこよく、今回の記事本文は画像のオマケみたいなものです。