平戸廉吉(明治26年/1893年生~大正11年/1922年没)
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『平戸廉吉詩集』平戸廉吉詩集刊行会・
昭和6年(1931年)12月12日刊
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大正10年(1921年)12月「日本未来派宣言」街頭ビラ
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平戸廉吉真筆生原稿
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合奏
平戸廉吉
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大正11年(1922年)7月20日病没、享年28歳で夭逝した平戸廉吉は日本で初めて「未来派」を名乗った詩人で、そのデビューは高橋新吉(1901~1987)の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年/1923年3月刊)、萩原恭次郎(1899~1938)の『死刑宣告』(大正14年/1925年10月刊)に先駆けていました。もっとも萩原恭次郎や高橋新吉は晩年の平戸廉吉と親好があり、萩原恭次郎は平戸廉吉遺稿詩集の編者の一人になり、高橋新吉は『ダダイスト新吉の詩』に「死んDA廉吉」というエッセイ風の追悼散文詩を書き下ろしています。平戸廉吉は生前刊行詩集がなく、唯一の詩集『平戸廉吉詩集』も没後約10年後の昭和6年(1931年)刊、予約制の自費出版でようやく実現したものでした。
遺稿詩集『平戸廉吉詩集』は詩集編四部構成、詩論3編から成り、詩集編全45篇のうち第一部「新聲」7篇、第二部「アラベスク」7篇、第三部「力闘」7篇は生前の平戸廉吉自身によって自選・編纂されていた初期詩篇です。大正10年(1921年)12月に街頭ビラとして撒かれた「日本未来派宣言」前後からの晩年1年間の「未来派」詩篇は第四部「展開」24篇にまとめられており、自選詩篇の第一部~第三部、未来派宣言以降の詩論3篇と合わせて全詩集・準全集と見なしていいでしょう。自選詩篇から洩れた初期の未収録詩篇、未収録散文(エッセイ、詩論、書簡、手記)などを集成した全集が編まれてもいい詩人ですが、昭和6年の『平戸廉吉詩集』以降現在まで全集刊行は実現していません。
未来派宣言以降の詩集第四部「展開」のうちでも、画像掲載した「合奏」はもっとも過激なタイポグラフィ詩で、イタリア詩人フィリッポ・T・マリネッティ(1876~1944)らが1909年以来提唱していた「未来派芸術」の、詩における実作をそのまま模倣したような作品です。高橋新吉のダダイズム詩、萩原恭次郎のアナーキズム詩はもっと日本語の詩として西洋のアヴァンギャルド詩を消化・独自展開したものでしたし、突然変異的な先駆例とも言える山村暮鳥(1884~1924)の驚異的詩集『聖三陵玻璃』(大正4年/1915年12月刊)も方法的な自覚が明確なものでした。平戸廉吉詩集の弱みは「合奏」のようなタイポグラフィ詩以外でも平凡な抒情詩、スローガン詩にとどまることで、大正の前衛詩運動においても火打石的な発火点に留まり、詩人としては優れた作品を残せなかったことにあります。しかし平戸廉吉の存在が高橋新吉、萩原恭次郎(この二人は全集刊行もされています)ら優れた詩人の活動を後押しした意義は紛れもないので、220ページほどの『平戸廉吉詩集』はその半分のページ数にも満たない山村暮鳥の『聖三陵玻璃』同様、日本の現代詩の特異点として手軽に読める普及版(大手文芸出版社による文庫化など)での再刊が望まれます。それを言えば『ダダイスト新吉の詩』『死刑宣告』はさらに重要な現代文学の古典ですが、もとより詩の読者など少ない(自称「詩人」の方が多い!)昨今、望みは限りなく薄いと思われます。