真木ひでと(ex.オックス)さん最新インタビュー | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


「僕と愛を引き離したい人がいたんじゃないかな」 失神バンドの栄光とその後 盟友の失踪脱退の真相は GS「オックス」ボーカルの真木ひでとさんインタビュー
(まいどなニュース)- Yahoo!ニュース  


ーー歌手になろうと思ったきっかけは? 

ひでと:小さな時から歌が大好きでした。中学生の頃に西郷輝彦さんに憧れたんですが、その頃、千葉県の叔父さんの家に居候していて、こっそり東京のジャズ喫茶に通ってるうちに「自分も歌手になりたいな」と。その後、ジャズ喫茶通いがバレて母親と同居することになり、大阪に移住しました。一応、高校受験して合格もしていたんだけど、それより歌手になりたいと家出して、東京に向かう途中で補導されてフイにしちゃいました。当時の僕は「西郷さんと同じ17歳までにデビューしなければいけない」と思い込んでいて、すごく焦っていたんですね(笑)。
 
ーーその後、どうされたのですか?

ひでと:家出にはこりごりしていたので、ひとまず地元から攻めようと。「歌わせてほしい」と大阪・ミナミのジャズ喫茶・ナンバ一番の門を叩きました。7、8回目でようやく支配人と会えて、いろんなバンドを紹介してもらったんだけど、当時のバンドってほとんど洋楽ロックのコピーだったんです。その頃、僕が英語で歌えた洋楽はピーター・ポール&マリーの『500マイルもはなれて』と『虹と共に消えた恋』くらい。ロックもよく知らなかったのでどこにも拾ってもらえず、最後のチャンスだと紹介されたのが木村幸弘とバックボーンでした。

 ーー横山ノックさん、上岡龍太郎さんらによるお笑いトリオ「漫画トリオ」のバックバンドをしていたグループですね。

ひでと:はい。バックボーンのオーディションで布施明さんの『霧の摩周湖』、ブルー・コメッツの『ブルー・シャトウ』を歌ったところ合格。初めはボーヤ(※雑用)兼メンバーみたいな感じでしたけど、ようやく歌手活動を始めることができました。 ーーバックボーンではどんな曲を? ひでと:初めは青春歌謡やブルー・コメッツばかり歌っていたんですが、1カ月くらいするとバンマスから「洋楽のロックを歌え」と。それでナンバ一番の楽屋口の前にあったペンギン堂というレコ―ド屋さんの店長に相談したところ、勧められたのがビートルズの『のっぽのサリー』。それをロカビリー時代の平尾昌晃さんや山下敬二郎さんを参考にした激しいパフォーマンスで歌ったところ評判になって、あっという間にナンバ一番でブロマイド売上1位になりました。その後、ローリング・ストーンズも歌うようになるんだけど、ペンギン堂の店長に聴くよう勧められたのはライブアルバム。おかげでオリジナルとは違うフィーリングを身に付けることが出来ました。それは後にオックスでカバーした『テル・ミー』にも影響していると思います。

◎「やっぱり東京に行きたかった」

ーーオックスに加入した経緯は? 

ひでと:評判を聞いたバンマスの福井利男さんからナンバ一番に電話が入り、近所の喫茶店でお話しすることになりました。東京進出するためにメンバーを集めているということで興味はあったんですが、その時はまだバックボーンに入れてもらって3カ月くらい。今、抜けるわけにはいかないとお断りしました。でも福井さんは諦めずに何度もアプローチしてくるんです。知らなかったけど、母親のところにも行ったりしてたみたい。1967年12月、漫画トリオの梅田コマ劇場公演に出演した時も観に来てくれて、あらためて誘われたんだけど、その頃、僕はコントでけっこう重要なポジションを任されていました。ノックさんの頭を洗面器で叩きに行く役(笑)。とても良くしてもらっていたので、抜けると言ってもノックさんが許してくれないだろうなと。 

ーーオックスに行きたいという気持ちはあったんですね。 

ひでと:はい、本心ではやっぱり東京に行きたかった。後日、オックスのライブに顔を出したんですが、演奏を聴いていたら心が動いていくんですね。断るために楽屋に行ったのに、メンバーたちから「ぜひ来てくれ」と懇願されて、無理やり衣装やブーツのサイズを測られたりしてるうちにもうやるしかないと。それで恐る恐るノックさんにお話に行ったんところ、「東京行けるんか?じゃあいいわ」といとも簡単に移籍を認めてくれたんです。年末の千秋楽まではバックボーンとして漫画トリオのバックを務めて、翌年1月1日からオックスのナンバ一番公演に合流しました。 

ーーオックスのレコードデビューは1968年5月5日。加入からデビューまでとんとん拍子ですね。 

ひでと:1月後半から来日したザ・スプートニクスの前座で関西中を回って、大きな反響がありました。アンプを倒したり、楽器を壊したり、そこまで過激なパフォーマンスをしているバンドは他に無かったから目立ったんですね。さっそくビクターの担当者とゼネラル・アート・プロデュース(のちホリプロに吸収)の社長がスカウトに来て、3月初めには東京でデビュー曲のレコーディングが始まりました。 

ーーそれが『ガール・フレンド』ですね。 

ひでと:はい、デモテープでは『おんな友達』というタイトルでした。さっそく聴いてみたんだけど、仮歌がすごく下手でね…。「果たしてこんな曲が売れるんだろうか」と不安になったんですが、後で聞いたら作詞・作曲を担当した橋本淳さんと筒美京平さんが歌っていたそうなんです(笑)。今思えばすごく貴重なテープなんだけど、残念なことにどこかに失くしてしまいました。 

◎各地で失神騒ぎ、PTAや教育委員会からバッシング 

ーーともあれ晴れてデビューして東京進出。反響はいかがでしたか? 

ひでと:3月17日に梅田「花馬車」で大阪さよなら公演を終えて東京に移ったんですが、初めは全然仕事がありませんでした。既にタイガースやテンプターズが人気を博していて、グループサウンズブームの真っ盛り。東京には雨後のタケノコのようにバンドがひしめいていたんですね。東京で一番有名だったジャズ喫茶「銀座ACB」に出たかったけど、なかなか出番が回ってこない。ジャガーズさんが交通事故に遭った穴埋めで、川崎のフロリダというゴーゴーホールに出演したのが初仕事でした。 その後、レコードも発売され、地道にやっているうちに少しずつお客がついてきて、6月23日には有楽町ビデオホールでファンクラブ結成イベント。この日、たまたまタイガースが地方公演に出ていたそうで、予想以上のお客さんが詰めかけました。これが噂を呼んだのか、9月にはワンマンでジャズ喫茶を埋められるようになり、『ガール・フレンド』がランキングのトップ10に。メディアも取材に押しかけました。 

ーー瞬く間にザ・タイガース、ザ・テンプターズと並んでグループサウンズブームの頂点に。この頃から「失神バンド」と呼ばれるようになったわけですね。 

ひでと:そうですね。『テル・ミー』を演奏しながら僕と赤松愛が失神するというパフォーマンスは以前からやっていたんだけど、9月14日の日比谷公会堂公演からはお客さんまで失神するようになりました。それをメディアが書き立てるものだから、「オックスのライブに来たら失神する」みたいなイメージが広まって、みんな『テル・ミー』じゃなくても失神しちゃう。各地で失神騒ぎが起きて、PTAや教育委員会にバッシングされる原因になってしまいました。 

ーーオックス版『テル・ミー』はどのように生まれたのでしょうか? 

ひでと:バックボーン時代から歌っていたので、オックスでもすぐレパートリーに加えました。初めは栗山純というボーカルと二人で歌っていたんですが、ほどなく脱退してしまったので愛と歌うことに。人気曲だったので、東京に来てまだ仕事が無い時期に愛と相談してどんどん演出を練っていきました。間奏で僕が台詞を語っているあたりまではまだ冷静なんですが、後半から僕と愛のバチバチした掛け合いが始まる。そしてラストのサビのリフレインでどんどん陶酔して、楽器を壊したりして、最後はベースの循環コードの中で僕と愛だけが歌い続けているという流れです。もの凄く緊張感があった。当時はそこまで分析してなかったけど、あのアフリカンリズムのようなシンプルなリズムの繰り返しも、人を暗示にかける作用があるようです。今、バックバンドの演奏で『テル・ミー』を歌っても、あんな感じには絶対ならない。オックスの演奏で、僕と愛がいたからなし得た現象でしょうね。 

◎協調性がなく変わり者だけど赤松愛は持ってるタイプ 

ーーオックスと言えばひでとさんと赤松愛さんのツートップというイメージがあります。 

ひでと:イメージ的には僕が陰で、愛が陽という感じでしょうか。愛は協調性が無くて変わり者なんだけど、持ってるタイプ。たとえば大阪のPLランドに出演した時、新幹線に乗り遅れちゃって、愛だけ伊丹空港からヘリコプターに乗って会場に来たんです。僕たちが3曲目を演奏している最中にステージの隣に降りてきたんだけど、ファンの人たちはそれを演出だと思って大興奮してる(笑)。 
(「サニー」赤松愛リード・ヴォーカル) 

ーー愛さんはなぜ脱退したのでしょうか? 

ひでと:1969年3月に浅草国際劇場で「オックス・ショー」というイベントがあったんですが、その頃からそんな雰囲気を感じました。トレードマークだった茶髪を黒に戻して、一緒に居ても笑顔が無くなって……最後は5月5日の土浦市民会館公演の時に失踪して、そのまま脱退ということになってしまいました。理由は本人にしかわからないけど、結局はオックスの人気を恐れた人たちにそそのかされてしまったということなんだと思っています。 当時、グループサウンズブームはすでに退潮していたけど、後発のオックスにはまだまだ勢いがありました。誰がとは言いませんが、僕と愛を引き離せばその勢いを削ぐことができると思ったんでしょう。一緒に続けていればもっと違う展開があったんじゃないかと思うと悔しいですね。  

◇ ◇ 真木ひでと(まき・ひでと)プロフィール
1950年、福岡県田川市生まれ。1968年、オックスのボーカル・野口ヒデトとしてデビュー。『ガール・フレンド』、『スワンの涙』などのヒット曲を連発し、グループサウンズブームの一翼を担う。1971年ソロデビュー。1975年「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き、『夢よもういちど』で演歌歌手として再デビュー。以降も数々のヒット曲を発表している。2020年、70歳を記念してオックス時代から最新録音まで全111曲を収録した5枚組CD集『陶酔・心酔・ひでと節!』をリリース。  

 先日ヤフーニュースに元オックスのヴォーカリスト、真木ひでと(野口ヒデト)さんのインタビュー記事(全3回)が掲載されていましたので、その第1回目、オックス時代の回想を抜粋引用させていただきました。ニュースサイトのリンクはだいたい3か月もすると消えてしまいますし、貴重なインタビュー記事なのに書籍化収録されるとは限りません。そこで無断転載ながら、ニュースサイトのアーカイヴから消えてしまう前に、記事前文を割愛し、インタビュー部分だけを抜粋して再録させていただいた次第です。シングル「ガール・フレンド c/w 花の指環」(ビクター, 昭和43年/1968年5月5日発売)でデビューしたオックスは、昭和46年(1971年)5月末の解散ライヴまでにシングル9枚、アルバム2枚(スタジオ盤1枚、ライヴ盤1枚)を発表した、グループサウンズ最後の花火、日本初のヴィジュアル系バンドと言える存在でした。もっぱら「失神バンド」とばかり語られがちなオックスですが、楽曲に恵まれ、ライヴの実力も確かで、実も花もあるバンドだったのはレコード音源を聴いても実感されます。また公式には、赤松愛さんの脱退は「ロンドンに渡ってジョン・レノンに師事するため」と発表されました。オックスの元メンバーは、リーダーでベーシストの福井利男(1947.1~2022.5)氏、昭和44年(1969年)5月まで在籍したオルガン奏者の赤松愛(1951.2~2022.7)さん、二代目オルガン奏者の田浦幸(夏夕介、1950.10~2010.1)さん、ドラマーの岩田裕二(1946.4~2023.9)氏と活動時期の新旧メンバー6人中4人までが故人となっており、存命なのはギタリストの岡田志郎(1949.6~)氏、野口ヒデトこと現・真木ひでと(1950.11~)さんの二人だけになっています。オックスの全音源は2枚組CD『オックス・コンプリート・コレクション』(ビクター, 2002.9.21)にまとめられており、2枚のオリジナル・アルバムにアルバム未収録シングル全曲、オムニバスLP提供曲、非売品シングル、野口ヒデトさんの初ソロ・シングルAB面を集成した、決定版コンピレーションです。なおオックスには3本の映画出演があり、レコードとは別テイクの演奏が聴けますが、版権上『コンプリート・コレクション』にも未収録なのは残念です。最後にオックスのラスト・シングル「もうどうにもならない」(ビクター, 昭和45年/1970年12月5日)を引いておきましょう。