120年前のヌード・モデル、オードリー・マンソン(1891-1996) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

(オードリー・マンソン、映画『Purity』1916の現存スチール写真より)
(サンフランシスコ万国博の年1915年、写真家アーノルド・ジェンスの愛猫ブザーとアトリエでくつろぐマンソン)

 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、というのはボルシェヴィキ革命のスローガンですが、これからそのあまりにも傷ましく、痛切な例をたどってみましょう。もっともご紹介するのは旧ソヴィエトならぬ20世紀アメリカの一女性の生涯です。

 1891年(明治24年)6月8日生まれ、20世紀アメリカ合衆国ニューヨークで活動した美術モデル、映画女優で「ミス・マンハッタン」「パナマ-パシフィック・ガール」「エクスポジション・ガール」「アメリカン・ヴィーナス」などさまざまな通称で知られ、ニューヨーク市内の15以上の彫像のモデル・着想源となり、4本のサイレント映画に出演した伝説的女性オードリー・マンソンは、ニューヨーク州ロチェスターでオードリー・マリー・マンソン(Audrey Marie Munson、1891-1996)として生まれました。父親はニューヨーク州メキシコ出身で、両親のエドガー・マンソンとキャサリン・"キティ"・マヘイニーは一人娘が幼い頃に離婚し、オードリーと母親はニューヨーク市に移り住みました。

 120年あまり昔の1906年(明治39年!)に、15歳のオードリーは写真家のラルフ・ドレイパーの目に留まり、ドレイパーの友人の彫刻家イジドール・コンティに紹介され、その後10年間にわたってニューヨークの多数の彫刻家・画家たちにとってもっとも人気を集めたモデルになります。1913年(大正2年)の新聞ザ・サン紙によれば「100人以上の芸術家が、ミス・マンハッタンの称号を誰かに冠するとすれば、それはこの若い女性にこそ相応しいと認めている」とされ、1915年(大正4年)には、同年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ=パシフィック万国博覧会)では芸術の理想的女神のシンボル彫像のためにアレクサンダー・スターリング・カルダーが起用するほどモデルとしての地位を確固たるものにしていました。彼女は博覧会に出品された彫刻のうち5分の3のモデルを務め、「パナマ=パシフィック・ガール」として国民的な知名度を得ました。1915年4月1日の新聞記事にも「彼女や同世代の人々全員がとうに塵と化した後も、オードリー・マンソンは世界の芸術の中心でブロンズ像やキャンバスの中に生き続ける」と称賛されたほどです。

 オードリー・マンソンの名声に目をつけた、当時サイレントながら長編劇映画へと発展途上の映画界は彼女に女優への転身を促し、彼女は4本のサイレント映画に主演することになります。芸術彫刻家とそのモデルを描いた初出演作『Inspiration』1915で、マンソンは公式な(おそらく私家版のブルー・フィルム以外では)アメリカ映画史上初の、全裸で登場した女優になりました。検閲官はこの映画の上映禁止を検討するも、芸術作品としてルネッサンス美術の公開許可と矛盾するために起訴を見送りました。映画の評価は分かれましたが、興行的には大成功を収めました。翌1916年には『Purity』と『The Girl o' Dreams』に主演し、さらに『Inspiration』が1918年に『The Perfect Model』と改題され再公開されましたが、現存するマンソンの映画はやはり純潔な美術モデルを演じた『Purity』1本のみで、21世紀に同作のプリントがフランスで発見されるまでオードリー・マンソンの出演映画はすべて散佚したと思われていました(アメリカ映画協会の調査では、サイレント時代の映画は製作・公開されたうち75パーセント以上が、トーキー映画の開発以降廃棄されて散佚しています)。
About Audrey Munson's "Purity" :  

 しかしモデルとして、また映画女優として名声の絶頂を極めていたマンソンのキャリアは、スキャンダルによって突然生命を断たれました。

 続いてオードリー・マンソンの後半生をたどってみましょう。もっともこの時点で彼女はまだ20代半ばなのですが、決定的な挫折はすぐ先に待ちかまえていました。それは陰惨で、猟奇的ですらある運命でした。

 1919年(大正8年)、オードリーは母のキティと、裕福な医師ウォルター・ウィルキンズ博士所有のニューヨークのアパートで母親と暮らしていました。ウィルキンズはオードリーと恋に落ち、彼女と結婚するために妻のジュリアを殺害しました。殺害の前にマンソン母娘はニューヨークを発っていましたが、警察は尋問のため母娘の行方を追い、全国規模の捜索の後、2人はようやくカナダのトロントで尋問を受け、ウィルキンズ夫人に迫られて下宿を追い出されたと証言しました。容疑からは逃れられましたが、事件のスキャンダルによってオードリー・マンソンのモデル、映画女優としての経歴は事実上ここで終わりを告げました。ウィルキンズは裁判にかけられ、有罪が確定し電気椅子送りを宣告されました。彼は刑が確定する前に、刑務所内の独房で自ら縊死自殺しました。

 1920年(大正9年)には、オードリー・マンソンは無職で勤め先もなく、台所用品の訪問販売による母親の収入だけでニューヨーク州のシラキュースに陰棲していました。そこに1921年(大正10年)2月、ペリー・プレイズ社は映画『Heedless Moths』出演のため、27,500ドルでオードリーと契約を結びました。この映画はオードリー・マンソンについて書かれた膨大な新聞記事と、彼女が新聞の日曜版に寄稿した短編やエッセイに基づき、彼女自身の半生を描いたものでした。そしてこの自伝的映画が彼女の出演した最後の(そしてやはり現在では失われて観ることのできない)映画作品になりました。
(自伝的映画『Heedless Moths』1921の現存スチール写真)
 "芸術家のモデルになるとはどういうことでしょうか?読者のみなさまの多くは、ヌードによって女性の慎み深さや純潔が損われているよりも、むしろ女性の慎みと純潔が表現されている美しい彫刻や印象的な絵画を目の前にすれば、「この女性は今どこにいるのだろう、とても美しかったこのモデルは?」と想いにふけるのではないでしょうか。"
(当時のマンソン自身の新聞連載エッセイより)
(「Mourning Victory」1908年、ダニエル・チェスター・フレンチ)
(「Star Maiden」1915年、アレクサンダー・スターリング・カルダー)
 1921年(大正10年)10月3日、マンソンはセントルスの舞台で芸術モデルの再現実演を演じたために、ストリップ・ショーの嫌疑で逮捕されました。同年と翌1922年に渡ってオードリー・マンソンの新作映画を装った『Purity』のヌード・シーンを中心とした再編集海賊版『Innocent』が彼女のマネージャーによって配給されたため、マネージャーも猥褻罪で逮捕され、オードリー・マンソンの逮捕と併せて報道されました。

 1922年(大正11年)5月27日、オードリー・マンソンは塩化第二水銀の溶液を飲んで自殺を図りました。

 1931年(昭和6年)、オードリー・マンソンは法廷で治療のため精神障害者施設への入所の判決を受けました。彼女はオグデンズバーグにある精神障害者のためのセント・ローレンス州立病院で、逝去までの65年間を過ごしました。以降オードリー・マンソンは一切世間の関心を惹くこともなく、1996年(平成8年)2月20日に104歳で亡くなるまで、あまりにも長すぎた余生を閉じました。

 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。さまざまなアーティストによる絵画、写真、銅像、彫刻、装飾建築に今も残る「美の女神」オードリー・マンソンの生涯はアートという残虐行為の名目の下で八つ裂きにされ、生け贄にされたものでした。それはまさに20世紀の100年間ほぼ全般に渡るアメリカ美術界にあって、残忍なまでに痛切に、その格言を体現したものでした。

 オードリー・マンソンについてのドキュメンタリー映像を以下に上げておきます。


(旧記事を手直しし、再掲載しました)