デニー・レイン(元ウイングス)逝去 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 ポール・マッカートニー(1942~)が‘70年代に率いたウイングスの名盤『バンド・オン・ザ・ラン』(1973年12月5日リリース)から50周年を記念した「50周年アニヴァーサリー・エディション」が発売されるニュースがサイト上に流れてきましたが、そういやポール&リンダ・マッカートニーのマッカートニー夫妻以外結成から解散まで唯一オリジナル・メンバーとして在籍したデニー・レイン(Denny Laine、元ムーディー・ブルース~ウイングス)の近況はと調べたところ、つい先日の2023年12月5日に亡くなっていたのを知りました。1944年10月生まれですから享年満79歳となります。ネット上での訃報はまったく見なかったので、新聞には載ったかもしれませんが、新聞を取らなくなってネット・ニュースが頼りの筆者には寝耳に水でした。ポール・マッカートニーがビートルズ解散以降唯一レギュラー・バンドとして組んだウイングスの全アルバムは、

『ワイルド・ライフ』 Wild Life (1971年12月7日、英#11/米#10)
『レッド・ローズ・スピードウェイ』Red Rose Speedway (1973年4月30日、英#5/米3週#1)
『バンド・オン・ザ・ラン』Band on the Run (1973年12月5日、英7週#1/米4週#1)
『ヴィーナス・アンド・マース』Venus and Mars (1975年5月30日、英2週#1/米1週#1)
『スピード・オブ・サウンド』Wings at Speed of Sound (1976年3月26日、英#2/米7週#1・年間#3)
『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』Wings Over America (1976年12月10日、英#8/米1週#1)
『ロンドン・タウン』London Town (1978年3月31日、英#4/米#2)
『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』 Wings Greatest (1978年11月22日、英#5/米#29)
『バック・トゥ・ジ・エッグ』Back to the Egg (1979年6月8日、英#6/米#8)

 と、いずれも‘70年代ロックの名盤となったスタジオ盤7作、ライヴ盤1作、ベスト盤1作をリリースし、1980年には来日ツアーが行われる予定でしたが、1980年1月16日に税関でポールが219グラムの大麻を所持していたことが発覚、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕され、来日公演は全日程中止、5日後の21日にはポール以外のメンバーは全員帰国します。ポールは9日間の勾留後釈放され、国外退去処分を受けて帰国し、『バック・トゥ・ジ・エッグ』発表後に、1970年4月発表の一人多重録音アルバム『マッカートニー』(英#1/米#1)の続編として来日前からやはり一人多重録音で制作していた『マッカートニーII』(McCartney II) (1980年5月16日、英#1/米#3)をリリースし、日本では収録曲のインストルメンタル曲「Frozen Jap」が問題になり同曲は日本盤のみ「Frozen Japanese」に改題されました。『マッカートニーII』は全盛期ウイングス以来のヒット・アルバムになり、アルバムからのシングル・カット曲「カミング・アップ」はイギリスではスタジオ・ヴァージョンで最高位2位、アメリカではウイングスによるライヴ・ヴァージョンでNo.1ヒットになりましたが、『ロンドン・タウン』『バック・トゥ・ジ・エッグ』のリリース時同様プロモーション・ツアーは行われず、ポールはデニー・レインを始めとする来日公演中止時のウイングスのメンバーとともに次作のレコーディングを始めるも、1980年12月8日のジョン・レノン殺害(今日は偶然43年目の命日になります)の報を受けてレコーディングは中断してしまいます。制作再開後にアルバムはウイングスでなくポールのソロ・アルバムとして仕切り直され、同作が『タッグ・オブ・ウォー』(Tug of War) (1982年4月5日、英2週#1/米3週#1)として大成功を収めるとともにウイングスも自然解散します。結局「カミング・アップ」のライヴ・ヴァージョン・シングルがウイングス名義の最後のリリースになったわけです。  

 ウイングスはポール&リンダ・マッカートニー夫妻とデニー・レイン以外はメンバーの出入りが多かったバンドで、ウイングスとしてのデビュー作『ワイルド・ライフ』はドラマーのデニー・シーウェルを含む四人編成でしたが、次作『レッド・ローズ・スピードウェイ』ではヘンリー・マカロック(リード・ギター)を増員した5人編成になるも、次作のナイジェリア録音作『バンド・オン・ザ・ラン』(当初の邦題は『バンドは荒野をめざす』でした)ではマッカートニー夫妻とデニー・レイン以外はスタジオ・ミュージシャンを起用しています。「ビートルズ解散以降のポールの最高傑作」と絶讚され大ヒットした同作を受けて、ポールは『ワイルド・ライフ』以来再びライヴ・バンドとしてのウイングスの増強を計り、ジミー・マカロック(リード・ギター)、ジョー・イングリッシュ(ドラムス)を加入させて『ヴィーナス・アンド・マース』『スピード・オブ・サウンド』を制作発表、『バンド・オン・ザ・ラン』の作風をさらにゴージャスにした『ヴィーナス~』、またバンドとしてのウイングスを強調し、全11曲中5曲がポール以外のメンバーが自作曲でリード・ヴォーカルを取り(レイン2曲、リンダ1曲、マカロック1曲、イングリッシュ1曲)、ポールの自作曲でリード・ヴォーカル曲が6曲の『スピード~』も、全米ツアー中にリリースされたタイミングとポールのヴォーカル曲「心のラヴ・ソング」(英#2/米5週#1)、「幸せのノック」(英#2/米#3)の2大ヒットで『バンド・オン・ザ・ラン』以来の絶頂期を保ちました。『ヴィーナス~』以来のメンバーに4人のホーン・セクションを加えて1976年3月~5月の全米ツアーから収録されたLP3枚組の大作ライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』もビートルズ解散以降のポールの集大成として大ヒットし、ここまでがウイングス全盛期と言えます。

 次の『ロンドン・タウン』ではジミー・マカロックとジョー・イングリッシュが脱退、リンダも産休のため実質ポールとデニー・レインの二人で制作され、もっともイギリス色かつデニー・レイン色の強いアルバムで、ディスコ・ブームの中チャートでは苦戦したアルバムになりました。『ウイングス・グレイテスト・ヒッツ』 は全12曲中5曲がアルバム未収録シングルで、特にポールとデニー・レインの共作でイギリスでは1977年11月にリリースされ全英1位、年間チャート1位で200万枚以上を売り上げたスコットランド民謡調の「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」の収録で好評を博し、ディスコ・ミュージックを意識した『バック・トゥ・ジ・エッグ』ではローレンス・ジューバー(リード・ギター)、スティーヴ・ホリー(ドラムス)を迎えてバンドの建て直しが計られましたが、リンダの育休からツアーが行われず再びチャートでは苦戦します。素晴らしい出来なのにチャート成績は思わしくなかった『ロンドン・タウン』『バック・トゥ・ジ・エッグ』を経て、ようやくリンダの育休明けでポール、リンダ、デニー・レイン、ローレンス・ジューバー、スティーヴ・ホリーのラインナップのライヴ・ツアーが1980年1月から行われようとした矢先に来日公演が中止になり、さらにジョン・レノンの逝去による紆余曲折を経て、当初ウイングス作品として制作され始めたアルバムがポールのソロ・アルバム『タッグ・オブ・ウォー』になり、同作の大ヒットによりウイングスが自然消滅したのは前述の通りです。ウイングスはリンダ夫人の素人コーラスも魅力でしたが、もともとムーディー・ブルース時代にはリーダーでリード・ヴォーカリストだったデニー・レインはポール同様マルチ・プレイヤーだったので、ヴォーカル・コーラスとともに、ライヴでポールがアコースティック・ギターやピアノ、ぎんぎんのリード・ギターを弾けば、デニー・レインがベースやピアノ、アコースティック・ギターやエレクトリック・ギターを弾くという、本来ベーシストのポールが楽曲ごとに勝手気ままに別楽器に持ち替える時の代役を勤める役割が主でした。ウイングス時代のポールは冴えまくって、ビートルズ級の曲を息でも吸うように連発していたので、器用なミュージシャンであれば別にデニー・レインでなくても良かったと思わせる所にデニー・レインの影の薄さがありました。

Denny Laine, 2013
 デニー・レインはムーディー・ブルースの創設メンバーで、1964年11月に同年中ヒット(全米40位)したR&Bナンバーをカヴァーした「ゴー・ナウ (Go Now)」で全英1位・全米10位の大ヒットを記録しました。20歳の時のデビュー曲で全英No.1ヒットを放ったのですから一発屋とは言え立派なものです。リーダーでリード・ヴォーカリストだったレインはムーディー・ブルースを1965年のファースト・アルバムのみで脱退しており、レイン以外のメンバーがジャスティン・ヘイワードとジョン・ロッジを迎えて再デビューした1967年以降のムーディー・ブルースは実質的には再結成バンド、いっそ別バンドと見なせます。デニー・レインがウイングス在籍中に発表したソロ・アルバムは1973年の『Ahh...Laine』と1977年の『Holly Days』がありますが、日本発売もされた1980年12月の『Japanese Tears』はあからさまな日本公演中止への当て付けと、「ゴー・ナウ」の再々演(ウイングスのステージでもデニー・レインの定番曲として演奏されていました)で日本のポール・マッカートニー・ファンの不興を買いました。ポールはデニー・レインをウイングスのNo.2として重用していましたが、結局デニー・レインの代表曲は、一般的にはムーディー・ブルース時代のカヴァー曲「ゴー・ナウ (Go Now)」、そしてウイングスでポールと共作した「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」に尽きるでしょう。また『バンド・オン・ザ・ラン』『ロンドン・タウン』の2作(試験的なウイングスのファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』を入れた3作でもいいかもしれません)は実質的にポールとデニー・レインだけ(リンダはコーラス程度)がウイングス名義で発表したアルバムでした。ウイングスでのデニー・レインはポールの忠実な子分をまっとうしたので唯一のオリジナル・メンバーになったとも言えます。レイン生涯の業績はカヴァー曲の大ヒット「ゴー・ナウ (Go Now)」、「兄弟の誓い」(ザ・ホリーズ)や「セイリング」(ロッド・スチュワート)と並んでイギリス庶民の裏国歌となったポールとの共作「夢の旅人 (Mull of Kintyre)」、それで十分とも思えます。ウイングス解散後は元ウイングス仲間とのトリビュート・バンド中心に活動し、晩年1年間はCOVID-19の後遺症で闘病生活だったようですが、逝去1週間前の2023年11月27日のチャリティー・コンサートがラスト・ライヴになったそうです。たぶん最後まで「ゴー・ナウ」と「夢の旅人」を歌っていたことでしょう。また『バンド・オン・ザ・ラン』発売のきっかり50年後の日付で逝去したのも、何か天の配采のような気がします。