日夏耿之介「墜ちきたる女性」「儂を制作った神さまよ」(『日夏耿之介全詩集』より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

日夏耿之介・明治23年(1890年)2月22日生~
昭和46年(1971年)6月13日没

 墜ちきたる女性
 日夏耿之介

昏黒(くらやみ)の霄(そら)たかきより裸形の女性(をんな)墜ちきたる
緑髪(かみ)微風(そよかぜ)にみだれ
双手は大地をゆびさす
劫初の古代(むかし)よりいままで恒に墜ちゆくか
一瞬のわが幻覚(まぼろし)
知らず 暁(あけ)の星どもは顔青ざめて
性急に嘲笑(あざわ)らふのみ

(初出原題「女」大正3年/1914年5月「假面」・詩集『転身の頌』大正6年/1917年より)

 儂を制作った神さまよ
 日夏耿之介

夜の灯に見る神楽面さながらの聖貌(おんかお)
神よ 爾(おんみ)の滑稽(おど)けたる悲しげな渋面(グリマース)を 瞻(み)せてくれい
(わし)を制作(つく)つた神さまよ 神さまよ
任意に儂を破壊したまへ
儂ばかりかは艸(くさ)も樹も大世界をも破壊したまへ
気前良き爾ら神さまは
(ま)たかかるややこしい小細工を始めるだらう

よけいなことだ
欠伸(あくび)せずに神さまよ 神さまよ 神さまよ
(はや)くとり懸って下されい
大破壊を または 絶後の統制を
どちらでも同(おんな)じことだ

(初出原題「破壊又は統制」大正5年/1916年8月「詩歌」、詩集『黒衣聖母』大正10年/1921年より)

 明治以降初めての本格的な日本現代詩史となった大著『明治大正詩史』昭和4年(1929年)で知られる詩人・批評家・英文学研究者の日夏耿之介(1890~1971)には4冊の詩集『轉身の頌』大正6年(1917年)12月刊・『黒衣聖母』大正10年(1921年)6月刊・『黄眠貼』昭和2年(1927年)11月刊・『咒文』昭和8年(1933年)2月刊があり、日夏には他にも選詩集や詩集未収録詩篇がありますが、昭和27年(1952年)1月刊の『日夏耿之介全詩集』にまとめる際に各詩集に増補改訂を加えて上記4詩集をもって全詩集の構成としています。萩原朔太郎が大正6年2月刊の『月に吠える』、大正12年(1923年)1月刊の『青猫』、大正14年(1925年)8月刊の『純情小曲集』、昭和9年(1934年)刊の『氷島』の4詩集以降には批評家・エッセイストに専念したのと時期的にも符合しており、昭和3年(1928年)に刊行された萩原の長編詩論『詩の原理』に相当するものが日夏にあっては『明治大正詩史』だったとも見なせます。日夏はのちに大正四大詩人として室生犀星、萩原朔太郎、佐藤春夫と日夏自身を上げ、また萩原朔太郎の方も日夏に親近感を持ち、大正後期に北原白秋門下生の大手拓次が門下を離れ、犀星が小説家に、山村暮鳥が孤立して隠遁同様にあった時期には、萩原自身と共通した詩境にある詩人は日夏耿之介と加藤介春(1885~1946)のみと表明していました。加藤介春は現在顧みられませんが複雑な詩歴をたどった「早稲田文学会」系の詩人で、萩原とは別に独自の口語自由詩に向かっていた詩人です。日夏は北村白秋・三木露風の二大潮流にあって白秋にも露風にも着かず、早くから高踏派の象徴詩人を標榜しており、該博な和漢洋の文学知識と晦渋な作風で玄人好みの詩人として白秋や白秋門下生たちにも認められ、さらに大正時代の若い世代の詩人から尊敬を集めていました。

 日夏は『明治大正詩史』において北村透谷(1868~1894)と中西梅花(1866~1898)、次いで宮崎湖処子(1864~1922)を明治29年(1896年)から明治30年(1897年)に第一詩集を刊行した与謝野鉄幹、島崎藤村以前の明治20年代最高の詩人と評価する一方で、山村暮鳥(1884~1924)を「死して天才と持て囃す風潮があるが一介の駄詩人に過ぎぬ」と一蹴しましたが、暮鳥の業績は日夏の4冊の詩集より大きいのは明らかです。日夏の詩も風変わりで一家の風格がある面白いものですが、暮鳥のように詩人本人の意図を超えて破格の大きさに達しているものではなく、あくまで日夏自身の意図を実現するだけにとどまっています。これは批判ではなくて、詩人は言葉をつかって世界を作りますからたいがいの詩人は自分の手のうちにある言葉で作品をつくります。その基準が詩人ごとの趣味によるのは当然のことで、用語や文体が適切で意図を効果的に実現しているほどまとまりの良い詩ができあがるのはいうまでもありません。ましてや詩人は言語感覚が命といってもいいので、日夏の否定的評価は山村暮鳥の大正4年(1915年)の詩集『聖三稜玻璃』の傑作のひとつである、

 あらし
 あらし
 しだれやなぎに光あれ
 あかんぼの
 へその芽
 水銀歇私的利亞(ヒステリア)
 はるきたり
 あしうらぞ
 あらしをまろめ
 愛のさもわるに
 烏龍(ウウロン)茶をかなしましむるか
 あらしは
 天に蹴上げられ。
 (「だんす」全行)

 ――の造語や漢字とかなの表記法、明確な脈絡を欠いた連想法と、表現主体も客体もない構成には顔をしかめたでしょうし、やはり『聖三稜玻璃』の佳篇である、

 岬の光り
 岬のしたにむらがる魚ら
 岬にみち盡き
 そら澄み
 岬に立てる一本の指。
 (「岬」全行)


 つりばりぞそらよりたれつ
 まぼろしのこがねのうをら
 さみしさに
 さみしさに
 そのはりをのみ。
 (「いのり」全行)

 ――も一篇の詩の体をなさないと切って捨てたでしょう。また大正7年(1918年)の暮鳥詩集『風は草木にささやいた』中のもっとも痛切な作品のひとつ(暮鳥は牧師詩人でした)、

 キリストよ
 こんなことはあへてめづらしくもないのだが
 けふも年若な婦人がわたしのところに来た
 そしてどうしたら
 聖書の中にかいてあるあの罪深い女のやうに
 泥まみれなおん足をなみだで洗つて
 黒い房房したこの髮の毛で
 それを拭いてあげるやうなことができるかとたづねるのだ
 わたしはちよつとこまつたが
 斯う言つた
 一人がくるしめばそれでいいのだ
 それでみんな救はれるんだと
 婦人はわたしの此の言葉によろこばされていそいそと帰つた
 婦人は大きなお腹(なか)をしてゐた
 それで独り身だといつてゐた
 キリストよ
 それでよかつたか
 何だかおそろしいやうな気がしてならない
 (「キリストに与へる詩」全行)

 ――を粗雑な文体による通俗的な人道主義詩と軽蔑したでしょうし、なおのこと似たような短詩ばかりの大正15年(1926年)の暮鳥遺稿詩集『雲』の、

 かうもりが一本
 地べたにつき刺されて
 たつてゐる

 だあれもゐない
 どこかで
 雲雀(ひばり)が鳴いてゐる

 ほんとにだれもゐないのか
 首を廻してみると
 ゐた、ゐた
 いいところをみつけたもんだな
 すぐ土手下の
 あの新緑の
 こんもりした灌木のかげだよ

 ぐるりと尻をまくつて
 しやがんで
 こつちをみてゐる
 (「野糞先生」全行)

 ――は低俗きわまりなく、また、

 しつかりと
 にぎつてゐた手を
 ひらいてみた

 ひらいてみたが
 なんにも
 なかつた

 しつかりと
 にぎらせたのも
 さびしさである

 それをまた
 ひらかせたのも
 さびしさである
 (「手」全行)

 ――も知性の欠如の見本のようなセンチメンタリズムと見えたと思われます。しかしこれらは日夏耿之介の詩にはないもので、日夏もなかなか奇想に富んだ詩を書いた詩人でした。第一詩集『転身の頌』に収録された「墜ちきたる女性」はひとりの全裸の女が永遠に地上に落下しつつある幻覚を見るという、いわばゼノンの矢のように時間が止まったような奇想天外な着想を簡潔にまとめており、また第二詩集『黒衣聖母』に収められた「儂を制作った神さまよ」はさらにわかりやすく、「大破壊を または 絶後の統制を」という行、さらに結句の「どちらでも同(おんな)じことだ」がちゃぶ台返しのように効いています。この2篇はいつも凝りすぎの観がある日夏耿之介の詩の中でもすっきりして成功した作品です。しかしこれを先に引いた暮鳥の詩や、透谷や暮鳥に傾倒し、日夏耿之介のイギリス19世紀ロマン派詩人研究を愛読していた無教会派キリスト教徒詩人・八木重吉(1898-1927)の大正15年(1926年)の第一詩集『秋の瞳』の、山村暮鳥に影響を受けた以下のような詩と較べると、日夏の詩には詩が真に詩であるための無垢な純真さや、微妙な何かが欠けているのが感じられます。

 息を ころせ
 いきを ころせ
 あかんぼが 空を みる
 ああ 空を みる
 (「息を 殺せ」全行)

 空が 凝視(み)てゐる
 ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる
 おそろしく むねおどるかなしい 瞳
 ひとみ! ひとみ!
 ひろやかな ひとみ、ふかぶかと
 かぎりない ひとみのうなばら
 ああ、その つよさ
 まさびしさ さやけさ
 (「空が 凝視てゐる」全行)

 ああ
 はるか
 よるの
 薔薇(そうび)
 (「夜の薔薇」全行) 

 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん
 (「人を 殺さば」全行)

 すずめが とぶ
 いちじるしい あやうさ

 はれわたりたる
 この あさの あやうさ
 (「朝の あやうさ」全行)

 しろい きのこ
 きいろい きのこ
 あめの日
 しづかな日
 (「あめの 日」全行)

 ちさい 童女が
 ぬかるみばたで くびをまわす
 灰色の
 午后の 暗光
 (「暗光」全行)

 あき空を はとが とぶ、
 それでよい
 それで いいのだ
 (「鳩がとぶ」全行)

 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる
 (「草に すわる」全行)

 秋が くると いふのか
 なにものとも しれぬけれど
 すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、
 わたしのこころが
 それよりも もつとひろいものの なかへくづれて ゆくのか
 (「秋」全行)

 れいめいは さんざめいて ながれてゆく
 やなぎのえだが さらりさらりと なびくとき
 あれほどおもたい わたしの こころでさへ
 なんとはなしに さらさらとながされてゆく
 (「黎明」全行)

 巨人が 生まれたならば
 人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない
 (「人間」全行)

 花が 咲いた
 秋の日の
 こころのなかに 花がさいた
 (「秋の日の こころ」全行)

 赤い 松の幹は 感傷
 (「感傷」全行)

 まひる
 けむし を 土にうづめる
 (「毛蟲を うづめる」全行)

 かへるべきである ともおもわれる
 (「おもひ」全行)

 白き 
 秋の 壁に
 かれ枝もて
 えがけば

 かれ枝より
 しづかなる
 ひびき ながるるなり
 (「秋の 壁」全行)

 このひごろ
 あまりには
 ひとを 憎まず
 すきとほりゆく
 郷愁
 ひえびえと ながる
 (「郷愁」全行)

 ひとつの
 ながれ
 あるごとし、
 いづくにか 空にかかりてか
 る、る、と
 ながるらしき
 (「ひとつの ながれ」全行)

 宇宙の良心――耶蘇
 (「宇宙の 良心」全行)

 彫(きざ)まれたる
 空よ
 光よ
 (「空と光」全行)

 せつに せつに
 ねがへども けふ水を みえねば
 なぐさまぬ こころおどりて
 はるのそらに
 しづかなる ながれを かんずる
 (「しづかなる ながれ」全行)

 これは ちいさい ふくろ
 ねんねこ おんぶのとき
 せなかに たらす 赤いふくろ
 まつしろな 絹のひもがついてゐます
 けさは
 しなやかな 秋
 ごらんなさい
 机のうへに 金糸のぬいとりもはいつた 赤いふくろがおいてある
 (「ちいさい ふくろ」全行)

 なくな 児よ
 哭くな 児よ
 この ちちをみよ
 なきもせぬ
 わらひも せぬ わ
 (「哭くな 児よ」全行)

 かの日の 怒り
 ひとりの いきもののごとくあゆみきたる
 ひかりある
 くろき 珠のごとく うしろよりせまつてくる
 (「怒り」全行)

 やなぎも かるく
 春も かるく
 赤い 山車(だし)には 赤い児がついて
 青い 山車には 青い児がついて
 柳もかるく
 はるもかるく
 けふの まつりは 花のようだ
 (「柳もかるく」全行)

 日夏耿之介の詩と較べてみれば、明らかに山村暮鳥や八木重吉は直観力でじかに現実から詩をつかみとる力のある詩人なのがわかります。それは両者がともにキリスト者であったことに由来を求めることもできるでしょう。それは世界が世界であることへの畏怖でもあり、日夏の詩には知的な分その畏怖の感覚がありません。しかし暮鳥と八木を較べれば見かけよりもずっとその詩自体から受ける印象は異なるので、詩の微妙さはその相違にも表れていると言っていいでしょう。ことに暮鳥のように作風の変遷が大きい詩人の場合なおさらじかに八木と比較するのは一部の詩の表面的な類似に惑わされかねません。一見難解な日夏耿之介の詩は暮鳥や八木の詩に較べれば知的操作によって明確な詩であり、その自負に対して日夏は屈指の学匠詩人という名声は確たるものとはいえ、萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫と並ぶ大正期の四大詩人という日夏自身の自負はまったく定着していないのは皮肉です。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)