むりやり崖を切り崩す | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 金子光晴(1895~1975)の第一詩集は2年間のヨーロッパ遊学の後の『こがね虫』(大正12年/1923年)ではなく、ヨーロッパ遊学直前に金子保和の本名で自費出版された『赤土の家』(大正8年/1919年)ですが、金子光晴は森三千代夫人と神楽坂を上がりきった赤城神社の崖っぷち裏のアパートに住んでいたそうなので、神楽坂で仕事をすることが多かった筆者はここが金子光晴ゆかりの地かと、神楽坂界隈の出版社や赤城神社裏の出版社に出入りする合間に故人の詩人を偲んだものです。赤城神社裏には救世軍の建前があり、神楽坂と交差する坂道の小路を降りるといかにも下町の民家と商店街があり、ごく狭い区画に銭湯も2軒ありました。あの坂はなかなか趣きのある、人の住む暖かみがあるものでした。
 ひるがえって現在筆者が住む町は、平坦地の地域の方が少ないくらいで、至るところ坂道だらけです。新宿から50分ほどの私鉄沿線なので郊外のベッドタウンとして人口は多いですが、駅前商店街は寂れ、子供の姿も滅多に見られず、ビジネス地域でもないので昼間は閑散としています。急斜面を切り崩してマンション建設が進められているので、例えば今回載せた写真でも通りに面した側は1階としても、マンションが建てられたら隣接したマンションに面した裏側は4階が4階でもあれば1階、というとんでもない斜面です。当時25歳の金子光晴がおよそ105年前の大正時代に赤城神社裏に寄せて『赤土の家』を書いたようには、ここから生まれてくる詩はないでしょう。ただしこれを原風景とした未来の世代には、ここから始まる抒情もあるかもしれません。それは何とも予想がつかないのです。