追想の三島由紀夫 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。



 三島由紀夫(1925~1970)には文壇デビュー前後の時代を回想した自伝『私の遍歴時代』(「東京新聞」昭和38年/1963年1月~5月連載、講談社・昭和39年/1964年5月刊)があり、新聞連載という媒体のためか三島にしては珍しく文飾も少なく平易で率直な自伝で韜晦もなく好ましい著作ですが、三島由紀夫の年譜を見ると昭和19年(1944年)から昭和20年(1945年)は軍籍に徴兵されながら学習院高等科を主席卒業するとともに初の著書『花ざかりの森』(七丈書院、昭和19年10月)を刊行し、旧制大学時代の東京帝国大学法学部に進学し、軍医の誤診で入隊検査を不合格となった代わりに敗戦まで各地の軍備工場を転々としています。昭和19年8月~9月には沼津海軍工廠、大学進学後に群馬県中島飛行機小泉工場、入隊検査不合格の後には昭和20年5月から敗戦まで神奈川県海軍高座工廠の寮に入り、8月15日に東京豪徳寺の親戚の家で天皇によるポツダム宣言受諾の玉音放送を聞いています。これらの軍備工廠はいずれもアメリカ軍による爆撃の危険がもっとも高かった施設です。三島は『私の遍歴時代』で、いよいよ爆撃が激化した昭和20年3月10日(3月10日は日本の陸軍記念日でした)の東京大空襲は家族ともども逃れましたが、小田急線で新宿から1時間弱かかる神奈川県海軍高座工廠の高台からも毎晩のように東京都心の爆撃が花火のように見えたそうです。

 神奈川県海軍高座工廠は戦後にアメリカ軍に接収され、アメリカ軍陸軍基地になりました。それが現在のアメリカ軍陸軍座間基地です。陸軍基地の一部は占領解放後日本に返還され、市立公園になっています。筆者は座間の生まれ育ちなので、子供の頃にはよく基地周りの高台や公園で遊んでいました。朝鮮戦争時には軍需景気で座間も発展したそうです。基地、もとい海軍工廠周辺は高台なので、あちこちの斜面には防空壕が掘られていました。軍需工場ですから戦時には民間人ではなく戦闘員の拠点と見られます。最寄り駅は小田急線の現・相武台前駅ですが、初めて『私の遍歴時代』を読んだ時、他ならない20歳の時の学徒動員工業兵・三島由紀夫がこの現・アメリカ軍座間基地、元日本軍工廠から都心の爆撃を目撃していたとは、より身近に三島の受けた衝撃を感じられる気がしました。結果的には高座郡座間村は空襲を免れましたが、軍備工廠を擁したこの町もまた、いつ爆撃されてもおかしくない戦場だったのです。それを教えてくれたのが三島由紀夫の自伝的回想でした。児童の頃に友達と秘密基地に見立てて遊んでいたあちこちの崖の防空壕も、戦時の庶民が命懸けで掘ったものだったのです。

 やがて筆者は劣等生ながら東京の大学に進学し、何とか入学できたのは靖国神社隣の私立大学でした。それには学業以外の目的もあって、その大学なら徒歩30分圏に商業映画館では観られない映画を上映しているシネマテークが集中していたからです。学費以外の生活費は自活して多摩川近くの町のアパートに住んでいましたが、大学内の図書館は盛んに利用したものの、授業は最小限にしか出席せず、学生課で紹介してもらえる生活費のためのアルバイトとシネマテーク通いに明け暮れていました。大学時代の三年次までに年間400本前後、三年間に1,200本以上の映画を観たと思います。名画座では学生料金で2本立てを観られましたし、各所のシネマテークや文化会館、近代映画館では会員になれば300~400円で古典映画から日本上映権切れ映画、日本未公開映画を集中して観ることができました。英語圏以外の映画はほとんど英語字幕つきでしたが、アメリカ映画は字幕なし、観慣れてくるとヒアリングも何とかなるものです。アルバイト先は大学近くを選び、昼食も夕食も学食のお世話になり、暇つぶしには靖国神社で「突撃する棺桶」人間魚雷を眺めに行きました。大学四年次でアルバイトした雑誌編集部の激務は授業はおろか映画にも行けず、実家からの学費援助も四年間で打ちきりなので結局大学は単位も足りず、学費未納で除籍になりましたが、その代わりアルバイトからそのまま雑誌編集部社員に登用されることになりました。三島由紀夫から話が逸れましたが、最小限通った大学にはそれなりに学恩を受けました。大学の先生たちからは戦後の文学界について、授業と逸脱した貴重な証言を聞けたからです。ことに三島由紀夫については、三島と同世代の文芸批評家でもある先生たちにとって「もっとも印象に残った作家」だったのが談話から伝わってきました。特に印象に残っているのは文学部長と総長を勤められていた小田切秀雄教授、一般教養で近代日本文学の教鞭を取っておられた古林尚先生、やはり一般教養の比較文学を担当されていた田中優子教授の談話です。ここから話はようやく本題になりますが、すでに前置きが長すぎたので、話は次回に続きます。